岩本信行とは? わかりやすく解説

岩本信行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 14:54 UTC 版)

1953年

岩本 信行(いわもと のぶゆき、1895年3月2日[1]1963年4月5日)は、日本の政治家国務大臣衆議院副議長(第34・35代)、衆議院議員(5期)。位階正三位勲等は勲一等[2]

来歴・人物

神奈川県高座郡大野村上鶴間(現相模原市南区)に、農業・岩本次左衛門の長男として生まれる。小学校を卒業後、東京府南多摩郡忠生村(現東京都町田市)にあった漢学塾・尚絅塾で学ぶ。大野村役場書記、高座郡書記を経て家業の農業に専念し、また養蚕組合を設立して組合長になったり、青年団長を務めるなど、地域の世話役的活動を積極的に行った。

大野村会議員(1922年)を経て、1928年神奈川県会議員に当選し、1946年まで選出される。またこの間県会議長を計3回・通算7年9ヶ月間務めた。この他県内の各種農業団体の役員も兼任し、相模原灌漑事業の推進や地元特産の養蚕業の振興、地域農民の福祉・厚生の拡充に尽力した。

1946年第22回衆議院議員総選挙日本自由党から旧神奈川全県1区(大選挙区制)にて立候補し当選する。以後当選5回。1947年衆院議員選挙法改正特別委員長として、野党議員の暴行を受けつつも改正案を可決させ、中選挙区制再導入の運びとなった。この時の活躍振りが吉田茂の目に留まり、1948年第2次吉田内閣にて国務大臣(地方財政委員会委員長)として入閣する。また1949年1953年には衆議院副議長として幣原喜重郎林譲治大野伴睦の各議長をサポートし、かつての名県会議長としての経験を活かして本会議を運営、その手堅さが高く評価された。

その後は自由民主党相談役などを務める。また1958年「在日朝鮮人帰国協力会」が結成されると、小泉純也らとともに3人の代表委員の一人となった。1960年第29回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退。

脚注

  1. ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、5頁。
  2. ^ 第43回国会 衆議院 本会議 第20号 昭和38年4月26日

参考文献

関連項目

議会
先代
田中萬逸
衆議院副議長
第34・35代:1949年 - 1953年
次代
原彪
公職
先代
野溝勝
地方財政委員会委員長
第3代:1948年 - 1949年
次代
木村小左衞門




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