河野治平とは? わかりやすく解説

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河野治平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 10:08 UTC 版)

河野治平(「神奈川県会史 第5巻(1957年)」より)

河野 治平(こうの じへい、1875年明治8年)1月5日 - 1950年昭和25年)12月23日)は、日本の政治家、実業家。神奈川県会議長。豊川村[1]。足柄肥料会社社長[1]。曽我銀行取締役。小田原実業銀行専務取締役[2]

副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣行政管理庁長官農林大臣を務めた河野一郎は次男。参議院議長を務めた河野謙三は三男。五女・美喜子はラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)社長や富士観光(現・富士レックス)社長を務めた越田覚造に嫁いだ。衆議院議長外務大臣自由民主党総裁新自由クラブ代表を務めた河野洋平は孫。外務大臣防衛大臣を務め、現在デジタル大臣を務める衆議院議員河野太郎は曽孫にあたる。

経歴

父は豊川村(現・小田原市)の地主、河野次郎平。河野家は元々先代・河野次郎右衛門の勤勉と篤農ぶりが認められ、藩主大久保氏から河野という苗字と帯刀を許された名主である[3]

東京帝国大学の農科に入学し、在学中の1895年(明治28年)3月1日、建設業者の長谷川勝五郎(長谷川豊吉の弟)の長女・タミと結婚する。大学卒業後、直ちに京都府農会の技手になり、京都伏見の茶業試験所に勤める[3]。しかし、京都に赴任してから二年足らずで妻が妊娠したため、京都府農会を辞めて郷里の小田原に戻る。その後、豊川村の村会議員、村長、郡会議員を歴任し、神奈川県会議長に就任した[3]

参考文献

  • 河野一郎『河野一郎自伝』徳間書店、1960年、7-11頁。
  • 神奈川県議会『神奈川県会史 第5巻』、1957年。

脚注

  1. ^ a b 大日本紳士名鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年9月30日閲覧。
  2. ^ 帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正14年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年9月30日閲覧。
  3. ^ a b c 河野一郎『河野一郎自伝』徳間書店、1965年10月30日、7-11頁。 





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