長谷川四郎 (政治家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/11 00:55 UTC 版)
|
長谷川 四郎
はせがわ しろう
|
|
|---|---|
| |
|
| 生年月日 | 1905年1月7日 |
| 出生地 | 群馬県山田郡大間々町大字桐原(現・みどり市大間々町桐原) |
| 没年月日 | 1986年8月7日(81歳没) |
| 出身校 | 大間々高等小学校 |
| 前職 | 商店経営者 |
| 所属政党 | (民主党→) (国民民主党→) (改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
| 称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 群馬県名誉県民 |
| 配偶者 | きく |
|
|
|
| 内閣 | 福田赳夫内閣 |
| 在任期間 | 1976年12月24日 - 1977年11月28日 |
|
|
|
| 在任期間 | 1972年1月29日 - 1972年11月13日 |
| 衆議院議長 | 船田中 |
|
|
|
| 内閣 | 第2次佐藤第2次改造内閣 |
| 在任期間 | 1968年11月30日 - 1970年1月14日 |
| 選挙区 | 旧群馬2区 |
| 当選回数 | 14回 |
| 在任期間 | 1949年1月24日 - 1986年6月2日 |
| 選挙区 | 山田郡選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1947年4月 - 1948年12月 |
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月7日[1][2] - 1986年〈昭和61年〉8月7日[1])は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(自由民主党所属、14期)、建設大臣、農林大臣。魚屋から衆議院副議長にまで上り詰めた立志伝中の人物として知られる。群馬県名誉県民第1号。
来歴・人物
群馬県山田郡大間々町大字桐原(現・みどり市大間々町桐原)に、父・辰之助、母・テルの三男として生まれる[1][2]。父は養蚕指導員だったが、幼少期に死去[2]。大正7年(1918年)大間々尋常高等小学校を卒業し[1][3]、地元の「いも寅」商店に奉公[1][3]。1931年(昭和6年)に魚店「魚丈」を開業し、1936年(昭和11年)に株式会社長谷川商店に改組[1][3]。太平洋戦争中は群馬県生鮮魚介配給統制組合理事長、群馬県魚介配給株式会社取締役社長などを務め、官庁に人脈を作る契機となった[2]。
戦後は桐生商工会議所副会頭となり、1947年(昭和22年)4月に行われた戦後初の群馬県議会議員選挙に山田郡選挙区から立候補し当選[1][4]。立候補に際して近藤英一郎と話し合いがもたれ、年長の長谷川が県議に、近藤は大間々町長に立候補することで合意したという[4]。
1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に群馬2区で民主党から衆議院議員に立候補し、新人でありながらトップ当選を果たした[5]。同年3月に民主党が野党派と連立派に分裂すると野党派に属し、翌年4月に民主党野党派が国民協同党・新政治協議会と合同し国民民主党を結成してからは同党に属した[6]。1952年(昭和27年)に改進党が発足すると同党に属し、造船疑獄に伴う1954年(昭和29年)4月24日の吉田内閣不信任決議案に対しては、改進党の立場に反して反対票を投じた[7]。
自由民主党では当初石橋湛山派に属し、1956年(昭和31年)に成立した石橋内閣では通産政務次官となったが、石橋内閣が2ヶ月で瓦解すると岸信介派に移り、1962年(昭和37年)に岸派が解散すると交友クラブ(川島正次郎派、のち椎名悦三郎派)に所属した[8]。
衆院商工委員長、同農水委員長、自民党国会対策委員長などを歴任しながらも入閣の機会に恵まれなかったが、1968年(昭和43年)第2次佐藤内閣で農林大臣に初入閣。農林大臣としては12年ぶりの生産者米価据え置きや第7回日米貿易経済合同委員会での交渉にあたった[9]。
1972年(昭和47年)1月、荒舩清十郎衆議院副議長が日本社会党・日本共産党に対し中傷的な発言をしたとして辞任したため、後任として副議長に就任[10]。1974年(昭和49年)に田中内閣が倒れると、後任をめぐり自民党副総裁・椎名悦三郎のもとで奔走、椎名裁定による三木内閣誕生に貢献した[11]。
1976年(昭和51年)に三木おろしが進む中、反三木の各派閥によって挙党体制確立協議会(挙党協)が結成されると椎名派からは長谷川が世話人となり、挙党協は福田赳夫を指導者として推すことに決定した[12]。同年12月に福田赳夫内閣が成立すると、挙党協で活躍した園田直・鈴木善幸らとともに建設大臣として入閣する。建設大臣としては北関東自動車道の建設などに取り組んだが、福田首相の目指す行政改革には真っ向から反対の姿勢を示し、行革は結局失敗に終わった[13]。
自由民主党群馬県支部連合会では1967年(昭和42年)7月から1986年(昭和61年)まで、実に19年にわたって会長を務めた[14]。当時の県内では福田赳夫・中曽根康弘がそれぞれ派閥の領袖となったため、県内での党派対立を抑えて「保守王国群馬」として一枚岩を維持する役割を果たした[15]。
また党内有数の繊維族議員としても活躍した[16][17]。1979年(昭和54年)、中川派「自由革新同好会」結成に最長老として参加、同派座長に就任し中川一郎を名実共に総理・総裁候補に推すべく苦心したが中川の死によりその目標は絶たれた。中川死去の翌1984年(昭和59年)に福田赳夫率いる福田派に合流した[18]。1986年(昭和61年)に政界引退を表明[19](地盤は谷津義男が引き継いだ)。当選回数14回[1]。
1978年(昭和53年)4月の春の叙勲で勲一等旭日大綬章を受章する[20][3]。
1986年(昭和61年)8月7日、肺線維症のため[1]草津町の病院で死去した[3]。81歳没。翌8日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正三位に叙され、銀杯一組を賜った[21][3]。群馬県政界の実力者として知られ、死去の前日に制定された群馬県名誉県民の第一号となった[22]。葬儀・告別式は大間々中学校体育館で福田赳夫を実行委員長として行われ、9月1日に前橋市の群馬県民会館で県民葬が営まれた[23]。法号は「四明院殿常知道行世音大居士」、墓所はみどり市大間々町桐原の世音寺[23]。
選挙歴
| 当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
政党内比例順位 /政党当選者数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 当 | 第24回衆議院議員総選挙 | 1949年1月23日 | 44 | 旧群馬2区 | 民主党 | 3万3740票 | 20.5% | 3 | 1/11 | / |
| 当 | 第25回衆議院議員総選挙 | 1952年10月1日 | 47 | 旧群馬2区 | 改進党 | 3万5855票 | 19.6% | 3 | 2/7 | / |
| 当 | 第26回衆議院議員総選挙 | 1953年4月19日 | 48 | 旧群馬2区 | 改進党 | 3万5239票 | 18.9% | 3 | 3/6 | / |
| 当 | 第27回衆議院議員総選挙 | 1955年2月27日 | 50 | 旧群馬2区 | 日本民主党 | 4万9535票 | 25.5% | 3 | 1/7 | / |
| 当 | 第28回衆議院議員総選挙 | 1958年5月22日 | 53 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 4万8665票 | 24.2% | 3 | 1/7 | / |
| 当 | 第29回衆議院議員総選挙 | 1960年11月20日 | 55 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 5万388票 | 26.07% | 3 | 1/7 | / |
| 当 | 第30回衆議院議員総選挙 | 1963年11月21日 | 58 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 5万3922票 | 27.08% | 3 | 1/6 | / |
| 当 | 第31回衆議院議員総選挙 | 1967年1月29日 | 62 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 6万5283票 | 32.38% | 3 | 1/5 | / |
| 当 | 第32回衆議院議員総選挙 | 1969年12月27日 | 64 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 6万7002票 | 27.45% | 3 | 1/7 | / |
| 当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 67 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 6万6864票 | 25.02% | 3 | 1/6 | / |
| 当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 71 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 5万8105票 | 21.22% | 3 | 3/5 | / |
| 当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 74 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 9万6414票 | 39.92% | 3 | 1/4 | / |
| 当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 75 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 9万7338票 | 35.96% | 3 | 1/5 | / |
| 当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 78 | 旧群馬2区 | 自由民主党 | 6万7892票 | 23.99% | 3 | 3/6 | / |
脚注
出典
- ^ a b c d e f g h i 群馬県義会事務局 編『群馬県議会史』 別巻《群馬県議会議員名鑑 現代編》(第1次改訂版)、群馬県議会、1993年12月1日、194頁。doi:10.11501/9639872。(
要登録) - ^ a b c d 大間々町誌編さん室 2000, pp. 418–421.
- ^ a b c d e f 大間々町誌編さん室 2000, p. 408.
- ^ a b 大間々町誌編さん室 2000, pp. 421–427.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 428–430.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, p. 470.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 471–472.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 478–486.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 493–502.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 490–493.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 486–487.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 487–489.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 502–507.
- ^ “県連の歩み|昭和35年~44年”. www.jimin-gunma.jp. 自由民主党群馬県支部連合会. 2023年12月19日閲覧。
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 507–510.
- ^ 日本経済新聞社 編『自民党政調会』日本経済新聞社、1983年10月25日、115頁。ISBN 4-532-09324-4。文庫版:日本経済新聞政治部『ドキュメント族議員』社会思想社〈現代教養文庫〉、1994年8月30日、130頁。 ISBN 4-390-11528-6。
- ^ 湯浅博『国会「議員族」 自民党「政調」と霞ケ関』教育社〈入門新書「時事問題解説」シリーズ〉、1986年8月5日、134頁。 ISBN 4-315-50380-0。
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 510–516.
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 522–525.
- ^ 『官報』号外第34号4頁 昭和53年5月2日
- ^ 『官報』第17851号号10・11頁 昭和61年8月14日
- ^ 大間々町誌編さん室 2000, pp. 403–404.
- ^ a b 大間々町誌編さん室 2000, p. 525.
参考文献
- 大間々町誌編さん室 編『大間々町誌』大間々町誌刊行委員会、2000年3月31日。doi:10.11501/13197369。(
要登録)
関連項目
- 群馬県出身の人物一覧
- 森菊蔵 - 詩人・作詞家。長谷川の秘書を務めていた。
外部リンク
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 荒舩清十郎 |
第50代:1972年 |
次代 秋田大助 |
| 先代 野原正勝 |
1962年 - 1963年 |
次代 松本一郎 |
| 先代 小平久雄 |
1958年 - 1959年 |
次代 中村幸八 |
| 公職 | ||
| 先代 中馬辰猪 |
第40代:1976年 - 1977年 |
次代 櫻内義雄 |
| 先代 西村直己 |
第40代:1968年 - 1970年 |
次代 倉石忠雄 |
| 党職 | ||
| 先代 佐々木秀世 |
自由民主党国会対策委員長 第13代:1967年 - 1968年 |
次代 園田直 |
| 先代 木暮武太夫 |
自由民主党群馬県支部連合会会長 1967年 - 1986年 |
次代 小渕恵三 |
- 長谷川四郎_(政治家)のページへのリンク