内ヶ崎作三郎とは? わかりやすく解説

内ヶ崎作三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 16:37 UTC 版)

内ヶ崎 作三郎
うちがさき さくさぶろう
生年月日 1877年4月8日
出生地 宮城県黒川郡富谷村(現・富谷市
没年月日 (1947-02-04) 1947年2月4日(69歳没)
出身校 東京帝国大学英文科卒業
前職 早稲田大学教授、ユニテリアン牧師
所属政党 憲政会
立憲民政党
翼賛政治体制協議会
称号 文学士

選挙区 (宮城4区→)
宮城1区
当選回数 7回
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内ヶ崎 作三郎(うちがさき さくさぶろう、1877年明治10年)4月8日[1] - 1947年昭和22年)2月4日)は、日本政治家。衆議院議員を通算7期務めた。

生涯

1877年(明治10年)、宮城県黒川郡富谷村(現・富谷市)に生まれた。第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科を卒業[2]オックスフォード大学へ留学[2]。帰国後、早稲田大学教授[2][3]1924年大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に宮城4区から立候補して初当選。1929年(昭和4年)、濱口内閣内務参与官に就任。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙宮城1区から立候補して次点[4][5]1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙当選。1937年(昭和12年)5月、立憲民政党総務[6]。同年6月、第1次近衛内閣文部政務次官に就任。1939年(昭和14年)4月、立憲民政党幹事長に就任[7]1941年(昭和16年)、衆議院副議長に就任[3]。戦後、公職追放となり[8]、追放中の1947年(昭和22年)、69歳で死亡。墓所は富谷市北雲台の他染井霊園にも墓碑がある。

人物

生家は内ヶ崎家の分家[9]で、内ヶ崎醤油店、またの名を内作商店と称した。内ヶ崎家の本家は酒造メーカー・内ヶ崎酒造店1661年寛文元年)の創業以来代々経営してきた[9]

第二高等学校在学中に栗原基に誘われアニー・S・ブゼルの英語の聖書講義に出席している[10]

改造社から発行された雑誌改造1925年(大正14年)6月号では無産政党の結党を見越して「次期総選挙に於ける無産政党の実勢力と其候補」と題して46名の有識者からのアンケート調査を発表した[3]。早大教授でもあった内ヶ崎は同誌同記事のアンケートに回答した有識者の1人であるが[3]、アンケートの回答で内ヶ崎は「知識階級は既成政党の実勢力を過小視する傾向あり。これは誤謬である。既成政党は不完全でも組織的伝統的の団体にして、過去四十年以上を費したる勢力である。無産政党は一挙にして此堅塁をつくことが出来ぬ」と明言している[11]。内ヶ崎が予想したように普通選挙が実施されても既成政党の圧倒的優位は揺らぐことはなく[12]、普通選挙による最初の総選挙である第16回衆議院議員総選挙でも無産政党の候補者は8名しか当選しなかった[12]

富谷小学校に胸像が建っている[2]1940年(昭和15年)には富谷村で皇紀二千六百年を記念して制定された村歌を作詞しており、富谷小学校では西成田小学校と統合されるまで村歌の全4番中1番と3番を抜粋して校歌としていた[13]

生家である旧内ヶ崎醤油店(2008年廃業[14])は大規模改修され、観光施設「富谷宿観光交流ステーション」(とみやど)として2021年春にオープンする[15]。観光施設内には内ヶ崎の記念館が設けられる[15]

栄典

著書

単著

  • 『人生と文学』警醒社書店、1910年5月。NDLJP:871704 
  • 『英国より祖国へ』北文館、1911年12月。NDLJP:767281 
  • 『ロイド・ヂョーヂ』前川文栄閣、1913年2月。NDLJP:951845 
  • 『近代人の信仰』警醒社書店、1913年6月。NDLJP:947474 
  • 『白中黄記』実業之日本社、1914年2月。NDLJP:951906 
  • 『英国及英国人』冨山房〈時事叢書 第11編〉、1914年11月。 
  • 『近代文芸之背景』日本学術普及会〈教育講座〉、1914年12月。NDLJP:948926 
  • 『人生日訓』大日本図書、1915年10月。NDLJP:954942 
  • 『ロイド・ヂョーヂ』早稲田大学出版部〈時局の生める四大人豪〉、1919年4月。NDLJP:933350 
  • 『リンコルン』実業之日本社〈英傑伝叢書 第9編〉、1919年5月。NDLJP:951608 
    • 『リンカーン』実業之日本社、1929年5月。NDLJP:1226822 
  • 『人生の根本問題』海外植民学校出版部、1919年6月。 
    • 『人生の根本問題』(再版)海外植民学校出版部、1919年6月。NDLJP:958490 
  • 『国際聯盟』早稲田大学出版部〈世界改造叢書 第9編〉、1920年4月。NDLJP:962259 
  • 『人生学』教育研究会、1926年2月。NDLJP:1021664 

翻訳

脚注

  1. ^ 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、83頁。
  2. ^ a b c d 富谷町北部地区
  3. ^ a b c d 『昭和の政党』、40頁。
  4. ^ 立憲政友会公認の守屋栄夫に668票差で敗れる。
  5. ^ 宮城1区 Archived 2016年3月5日, at the Wayback Machine.
  6. ^ 立憲民政党
  7. ^ 『昭和の政党』、419頁。
  8. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面「追放該当者氏名」
  9. ^ a b 富谷市(宮城県)の若生裕俊市長から「内ヶ崎作三郎」展にメッセージ! - 友愛労働歴史館公式サイト内のページ。
  10. ^ 南山城の光芒
  11. ^ 『昭和の政党』、40-41頁。
  12. ^ a b 『昭和の政党』、41頁。
  13. ^ 『広報とみや』2016年11月号, pp3-4
  14. ^ https://www.tomiya-city.miyagi.jp/bunka/rekishi/minzoku/sakusaburou-qanda.html
  15. ^ a b 富谷茶で祝う開宿400年 「とみやど」先行公開も”. 河北新報. 2020年10月26日閲覧。
  16. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年(昭和6年)12月28日

参考文献

外部リンク



内ヶ崎作三郎(衆議院副議長)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:36 UTC 版)

小泉八雲」の記事における「内ヶ崎作三郎(衆議院副議長)」の解説

内ヶ崎は田部隆次著『小泉八雲』に序文小泉八雲先生を懐ふ」を寄せこの中で「されど先生清く澄んだ歌ふがごとき声がかすかに微笑を湛ゆる口辺より洩るるを聞く時は、その事自身一種魔力であった」と述べて浅野同じく魔力”の表現使った

※この「内ヶ崎作三郎(衆議院副議長)」の解説は、「小泉八雲」の解説の一部です。
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