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東海林稔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/13 06:00 UTC 版)

東海林 稔(しょうじ みのる、1903年11月7日[1] - 1967年10月1日[1][2])は、日本地方公務員政治家日本社会党衆議院議員

東海林 稔
しょうじ みのる
生年月日 (1903-11-07) 1903年11月7日
出生地 新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市
没年月日 (1967-10-01) 1967年10月1日(63歳没)
出身校 北海道帝国大学農学部農業経済学科
前職 地方公務員
所属政党 日本社会党

選挙区 旧群馬2区
当選回数 4回
在任期間 1958年5月22日 - 1967年10月1日
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経歴

新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市)出身[1][注 1]。旧制新潟県立村上中学校(現・新潟県立村上高等学校[注 2]を経て、1927年北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業[1][3]台湾総督府技師[1][3]陸軍ジャワ司政官となり、ジャカルタ州経済部長となる[1]。この時妻子を台湾に残した[1]。戦後の1946年復員[1]。翌1947年群馬県庁に入り農地部長・経済部長などを歴任した後に[1]1956年知事選に社会党推薦で立候補するが竹腰俊蔵に敗れる。

1958年総選挙群馬2区から社会党公認で立候補、当選して4期務めるが在任中に交通事故で死去[1]。この間、畜産物価審議会委員・日本社会党群馬県連合会副会長・同県本部委員長・農林水産部会長・全日農ダム特別委員長・同中央常任委員・群馬県生活協同組合連合会会長・県労働者生協理事長など[1][2]の要職を歴任した。

脚注

注釈

  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』318頁では「群馬県出身」と記載。
  2. ^ 『群馬県人名大事典』267頁では「村山中」となっているが誤り。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『群馬県人名大事典』267頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』319頁。
  3. ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』318頁。

参考文献

  • 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目




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