金大中拉致事件とは? わかりやすく解説

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金大中事件

(金大中拉致事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 21:16 UTC 版)

金大中事件
各種表記
ハングル 김대중 납치사건
漢字 金大中拉致事件
発音 キム・デジュン ナプチサコン
日本語読み: きんだいちゅうらちじけん
英語 Kidnapping of Kim Dae-jung
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金大中事件(きんだいちゅうじけん、キム・デジュンじけん[注 1])は、1973年8月8日、亡命生活を送っていた大韓民国金大中[1]韓国中央情報部(KCIA) により東京都千代田区ホテルグランドパレスの22階で拉致され、船で連れ去られ、8月13日にソウル市内の自宅前で解放された事件である[2]

金大中拉致事件(きんだいちゅう/キム・デジュンらちじけん)ともいう。

前史

1971年

金大中

1971年4月27日に行なわれた大統領選挙金大中新民党(当時)の正式候補として立候補したが、民主共和党(当時)の候補・朴正煕(パク・チョンヒ)現役大統領(当時)にわずか97万票差で敗れた。朴は辛くも勝利したが、民主主義回復を求める金に危機感を覚えた。

同年5月24日、金は、翌日投票の国会議員総選挙の応援演説をするため、木浦市からソウルへ飛行機で飛ぶ予定であった。木浦は雨のため飛行機の離発着ができないという連絡が金に入った。光州市の飛行場なら飛行機が飛ぶと言われ、急いで光州へ車で向かった。前方から来た大型トラックが金の乗る車に突っ込んだ。金の車のうしろのタクシーに乗っていた3人が即死し、3人が重傷を負った[3]。金はと股関節に障害を負った。後に韓国政府はKCIAが行った交通事故を装った暗殺工作であったことを認めている。その際、日本の暴力団への依頼も検討していたことが国家情報院の過去事件の真相究明委員会で明らかになっているが、最終的にはKCIAによる外国での殺害を断念した[4]

1972年

1972年5月2日、朴の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部長が平壌を訪問。5月4日、平壌の金英柱組織指導部長と会談した[5]。同年5月29日から6月1日の間、北朝鮮の朴成哲第二副首相がソウルを訪問して李と会談し、7月4日には南北共同声明を発し、祖国統一促進のための原則で合意した。この歴史的会談によって李の韓国国内の評価は一気に高まり、「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

同年10月11日、金大中は治療のため、9日間の予定で来日した。10月17日、福田赳夫河野謙三と会談し、夕方に宿舎の帝国ホテルに戻った。テレビのニュースで、朴が非常戒厳令を布告し、19時をもって国会を解散し、現行憲法の一部条項の効力停止を断行した(十月維新)ことを知った[6]。金は一晩考えたのち、亡命生活を送ることを決断。翌18日午後、「朴正熙大統領の今度の措置は、統一をかたり自身の独裁的永久執権をねらう驚くべき反民主的措置である」との声明を発表した[1]。11月13日、米国へ出国した[7]

金大中拉致事件

1972年12月 - 1973年5月

1972年12月、『世界』と『中央公論』の1973年1月号がそれぞれ発売された。金大中は『世界』に論文「憤りをもって韓国の現状を訴える」を寄稿し、『中央公論』に「祖国韓国の悲痛な現実」を寄稿した[8]

同年12月14日、金大中はニューヨークのコロンビア大学講堂で時局講演会を行った。一般の在米韓国人を前に登場するのは初めてであったが500人もの聴衆を集めた。この演説会の成功により、金は、海外の反朴勢力を結集し組織できるという手応えを得た[9]。1973年1月5日、金は米国から日本に入国した。

朴正熙は中央情報部(KCIA)の李厚洛部長に「金大中をなぜ放っておくのか」と暗示した[10]。1972年暮れから1973年1月にかけてKCIAと陸上幕僚監部第2部の間で金大中を拉致する作戦計画が練られたと言われている[11]。同年2月18日から同月24日まで、第2部の塚本勝一部長は韓国を訪問[12]。帰国後、塚本は第2部の特別勤務班に所属していた坪山晃三に情報事務所の開設をすすめた[11]

同年1月27日、梁一東らが民主統一党を結成[7]。梁一東が党首に就いた。同年2月27日に行われた総選挙で同党は57名の候補者を擁立するも、当選者は2名と惨敗した。

金は2月7日(ホテルニュージャパン)、2月18日(白樺湖)、3月22日(箱根)と精力的に講演を行い、朴正煕の維新体制政権を批判し続けた[7][10]。3月25日、金大中は日本から米国へ出国した[7]

この年、首都警備司令官の尹必鏞(ユン・ピリョン)将軍が李との談話で「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」と漏らし、この発言が朴正煕の逆鱗に触れた(いわゆる尹必鏞事件[注 2]。李は、名誉挽回のために、朴の政敵である金を殺害または拉致する計画を立てるに至ったとも言われる。

金大中拉致事件の中枢にいたのはKCIA部長の李厚洛、同情報次長補の李哲熙、同海外情報局長(八局長)の河泰俊の3人。同海外工作団長の尹鎮遠が総指揮に当たり、KCIAの海外要員である駐日大使館公使の金基完(金在権)と駐日大使館参事官の尹英老が日本での活動責任者を担った[13]

1973年6月以降

1973年6月末、陸上幕僚監部第2部に所属していた坪山晃三が三佐階級で退職。翌7月1日、坪山は興信所「ミリオン資料サービス」を飯田橋に設立した[7][14]。二等陸曹の江村菊男は、除隊する前に働き口を調べてみるという口実で、同月からミリオン資料サービスに勤務した[15][16]

7月初め、金大中の来日に備え、在日の韓国同胞らは新宿区高田馬場2丁目の原田マンションの11階に事務所を設けた。「秘書団」をつくり、金大中の警護の計画を練った[注 3]

7月10日、金大中は米国から日本に入国した。通常の旅券とビザによるものではなく、赤十字国際委員会発給の身分証明書によって特別に入国許可が下りた[18][19]。その際の身元引受人は前駐韓大使の金山政英であった[19]。米国に続いて日本でも「韓国民主回復統一促進会議」の支部を結成することが訪日の目的であった[19]。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。

拉致工作の現場責任者に任命されたのはKCIA要員の金炳賛(キム・ピョンチャン)だった。金炳賛はその頃、駐日大使館の1等書記官という「偽装身分」を得て「金東雲」の名で活動していた[14]。金東雲の工作チームは自力では金大中の居所をつかむことができなかったため、7月15日、ミリオン資料サービスの坪山に金大中の所在と資金源・支援組織の調査を依頼した。元自衛官の坪山は数年前から北朝鮮情報を集めており、金東雲と坪山は旧知の間柄だった[20][14][7]

7月16日、民主統一党党首の梁一東が来日。同月21日、梁一東は糖尿病の治療のため順天堂医院に入院した[7]。同月29日、梁一東は金大中をヒルトンホテルに訪ね会談し、再会を約した[21]。ミリオン資料サービスは7月25日、27日、28日と、原田マンションを見張った[7]。坪山は金大中の立ち回り先とみられるホテルなどで張り込んだが空振りが続いた[22]。金東雲が坪山に2000万円の小切手を渡しかけると、坪山は「多すぎる」と突き返した[22]

8月1日、江村菊男は自衛隊を退職した[23][15]

8月2日、ミリオン資料サービスは金大中が銀座第一ホテルで新聞記者と会見しているのを目撃。坪山が同日夜にそのことを金東雲に報告すると、金東雲は「拉致してほしい」と持ち掛けた[22]。8月3日、金東雲は坪山に調査費の未払い金20万円を渡した。両者が会ったのはこのときが最後だった[22]

8月4日、梁一東は退院し、ホテルグランドパレス千代田区飯田橋1-1-1)の22階のスイートルーム、2211号室、2212号室の続き部屋に移った。そこへ早速、駐日大使館の金在権公使が見舞いに現れた。金在権は見舞いをよそおって、金大中と梁一東の第2回目の会談の日取りを探った[21]

8月8日、『世界』9月号が発売。同号に安江良介編集長と金の対談「韓国民主化への道―朴政権の矛盾は拡大している」が掲載される。対談は7月18日に行われたもので、金は民主化のための努力を語るとともに南北韓統一問題などについても言及した[24][25]。そしてこの日、事件が起こった。

1973年8月8日事件発生

8月8日午前10時45分、金大中は護衛の金康寿とともに宿泊していたパレスサイド・ホテルからタクシーでホテルグランドパレスに向った[26]

同日11時、金は1階ロビーに金康寿を残して一人で、2211号室に梁一東を訪ねた。梁一東は金を隣の2212号室に案内して約1時間懇談した。12時すぎ、神田に本を買いに行っていた国会議員の金敬仁が帰って来て加わり、3人で食事をした[26]

同日13時19分、金大中は金敬仁に付き添われ2212号室を出た[13][27]。エレベーターの方へ7、8歩行ったところへ、2210号室から3人、2215号室から3人、計6人の男が出て来て、金大中と金敬仁を取り囲んだ。そのうち2人が金敬仁を梁一東のいる2212号室に押し戻した。金大中は残る4人の男によって2210号室に連れ込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった[27][28]。エレベーターを使って地下駐車場に運ばれ、13時19分、金大中を乗せたスカイライン2000GTはホテルを出た[29]

実行犯はKCIA海外工作団長の尹鎮遠、駐日大使館の韓椿、金東雲、洪性採の各1等書記官、劉永福、柳春国の各二等書記官の計6人。韓椿以下の5人はいずれもKCIAの要員だった。拉致犯6人のうち、金東雲と柳春国の2人はホテル現場で姿を消した[13]関西方面神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。

拉致されたことはほどなく韓国にも伝わった。妻の李姫鎬は夫の身辺救護を依頼するため、当時鍾路区中学洞にあった日本大使館を訪れた。応対に出た一等書記官は後宮虎郎大使と打ち合わたのち、「大使は外出中である」として居留守を使って李姫鎬を帰した。翌9日、後宮は「日本に対して身辺の保護を依頼するなら、第一次的には韓国政府に依頼し、韓国政府から日本政府に言うのが筋だと思う」と述べた[30]

金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁ヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行したとも言われる。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。

8月11日深夜、釜山港内に船が到着。同月12日午前7時、埠頭に接岸。埠頭にはKCIA八局日本課長の金珍秀、八局工作団二課長の姜済元、医務室長の金山培らが待っていた[13]

8月13日夜、金大中はソウル市麻浦区にある自宅から歩いて3分ほどの東橋教会の前あたりで車から下ろされ、「3分間目隠しのまま立っておれ」と命じられた。22時20分頃に金は自宅の門のベルを押した。その数分前の22時15分頃、東亜日報はじめ新聞、放送各社に「愛国青年救国隊」の隊員と名乗る男の声で一斉に電話がかかり、「金大中を釈放した。金のように外国に出て軽挙妄動する奴はそのまま放っておくことはできない」との通告があった[31]。22時32分頃、東亜日報は音楽番組を中断し、臨時ニュースで金がソウルの自宅で解放されたと報じた[32]

金は解放直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。金は8月16日から自宅で軟禁状態に置かれた[7]

8月19日、金東雲は密かに日本を出国し、韓国に戻った[33]

8月23日、読売新聞朝刊は1面の全面近くを使って、「金大中事件、情報部機関員が関係――韓国政府筋が認める」「李情報部長ら引責か」と見出しを立てたソウル支局発の記事を掲載した[34]。同日夕方、韓国の尹文化広報部長官は読売新聞社に対し、記事の全文取り消しを要求し、取り消さない場合には読売新聞ソウル支局を閉鎖すると脅した。読売新聞側は「この記事は信頼できる確実な筋から取材し、自信をもって掲載したものであるから、取り消し要求には応じられない」と回答した。そのため支局は閉鎖され、特派員は追放された[34]。その後、警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。

9月5日朝、日本政府は、李澔駐日韓国大使に、金東雲の出頭を要請した。現場に金東雲の指紋が検出されていたためであった。李大使は金東雲がすでに出国していたことを伏せ、外交官特権をあげて要請を拒否した[35][36]。拉致実行犯のひとりである劉永福は9月5日に日本を出国。同じく洪性採と柳春国も9月6日に日本を出国した[37][38]

9月末、官房副長官後藤田正晴は坪山と江村と直接会い、すべての連絡を絶って潜伏するよう指示した。後藤田は逃避と生計資金として計1300万円を二人に提供した[15]

坪山の前職の自衛隊での所属先はこの頃、明らかとされていなかった。10月9日、衆議院内閣委員会で日本社会党の大出俊が特別勤務班、通称「別班」に言及した。答弁に立った防衛局長の久保卓也は「新聞、雑誌に別班ということばが出ておりますが、私どもは陸幕二部で別班というものを持っておりません」と述べ、その存在を否定した[39]。それからほどなくして評論家の藤島宇内が『週刊現代』10月18日号で、自衛隊関係者からの情報として、坪山は別班のOBであると発表した[40][14]

10月26日、金の軟禁が解除された[7]

事件のその後

1973年11月の第一次政治決着

1973年9月27日、岸信介石井光次郎田中龍夫野田卯一矢次一夫ら一行11人はソウルに到着。28日から29日にかけて、岸らは朴正煕、金鍾泌首相丁一権らを訪問し、中断されていた日韓定期閣僚会議の早期開催について協議した[41]。岸以外の10人は速やかに帰国したが、岸だけは韓国に滞在し続け、10月6日には単独で朴と会談した。同月7日に日本に帰るとすぐに田中角栄首相と会い、韓国との「政治決着」を進言した[42]

同年11月2日、金鍾泌が訪日し、官邸で田中首相と会談した。金鍾泌は「金東雲の個人的犯行で公権力は介入していない。捜査は続け、法的手続きに従って処理する」と述べた。田中は、金大中拉致事件を一段落させることで閣議の正式な了解を得たことを述べ、「これで外交決着をつけるが、今後の捜査結果について日本国民の納得のいく通報を期待する」と答えた[7][43]

のちに盧武鉉政権時代に公開された外交文書により、このときの両国首相の会談内容の詳細が明らかになった。田中が「韓国政府の介入事実が判明すれば、新しく問題を提起する」と述べると、これに対し金鍾泌は「必ずそうするということか、それとも『タテマエ』か」と、日本語の「建前」をそのまま使って尋ねた。田中は「建前」とし、「この問題は『パー』にしよう」と言ったとされる。日本が主張した真相糾明は形式的なものに過ぎなかった[44][45]

この第一次政治決着により、KCIAの犯行への関与事実の解明と、日本の主権侵害の回復ならびに金大中の原状回復要求が放棄された。凍結されていた対韓経済援助と日韓定期閣僚会議の再開も決まった[43][46]。対韓経済援助は12月24日に再開し、同月26日に第7回日韓定期閣僚会議が開かれた[7]。『文藝春秋』2001年2月号の記事[要文献特定詳細情報]によると「田中角栄首相が、政治決着で解決を探る朴大統領側から少なくとも現金4億円を受け取っていた」と現金授受の場に同席した木村博保元新潟県議が証言している。

12月3日、朴大統領は内閣改造を発表した。22閣僚のうち10人が代わり、外相に元駐日韓国大使金東祚が就任した。拉致事件で日韓の外交折衝に当たった責任者たちは金鍾泌首相を除いてすべて第一線から退いた。中央情報部長の李厚洛も解任された[47]。1961年5月16日のクーデター以来、朴正熙の側近として権勢を振るってきた李厚洛は失脚した。このことは李厚洛が金鍾泌との権力争いに敗れたことをも意味した[47]

日本国内では反韓感情が高まった。その運動の中から1974年8月15日、在日韓国人の文世光が朴正煕殺害を試み、陸英修大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭が解任された。

1975年7月の第二次政治決着

1975年7月23日から24日にかけて宮澤喜一外相は韓国を訪れ、金東祚外相と会談した。宮澤は24日、「韓国側は事件について最善を尽くしたと判断。これで決着した」と語った。韓国政府はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関の関与を全面否定した。また、「金大中氏の帰国前の海外での行為は不問にする」という了解が日韓両政府間で交わされた。宮澤と金東祚の両外相の会談は第二次政治決着と呼ばれている[7][43]

1977年6月22日、米国に亡命中の元KCIA部長の金炯旭は、米国の下院国際機構小委員会に出席し「事件は李厚洛が指揮し、朴大統領の了承を得て実施された。警察はKCIA部員3人が金大中を尾行していることを知り、写真を撮った」などと証言した[7]

1978年11月2日、米下院国際機構小委員会は「金大中氏はKCIAによってホテルから拉致された」との調査結果を報告書にまとめ発表した[7]

金大中が韓国大統領に就任

金大中の大統領就任式直前の1998年2月19日、『東亜日報』が、「KT工作要員実態調査報告」と題されたKCIAの内部文書の存在ならびに内容をスクープした。同報告書は1979年3月10日付で作成されており、拉致に関与したKCIAの要員46人の氏名、東京で拉致してソウルへ移送するまでの担当者や船員の氏名と役割が細かく記されていた[48]。また同紙は、当時のKCIA次長補の李哲煕とのインタビュー記事を掲載。李哲煕が「事件は73年春、李厚洛が『金大中を無条件に韓国に連れてこい』と指示したことによりKCIA海外工作チームが行った」と述べたことを伝えた[49]

1998年6月、事件に関連する米国の国務省の資料が公開された。当時の駐韓米国大使館が、秘密電文で「李厚洛中央情報部長の指示の下、拉致事件が行われた。朴正煕大統領も明示的または暗黙的に承認したと見られる」と本国に報告していたことが明らかとされた[10][44]

2007年10月14日付の北海道新聞によると、「当初金氏を日本の韓国系暴力団に依頼して暗殺することがKCIA内で検討されたが、成功が困難と判断して断念したことを元KCIA職員が証言した」との記事を掲載した。なお、元朴大統領の側近はこの証言を否定している。拉致の目的は金の海外での反政府活動を抑制するためだったと別の元KCIA職員が証言し、殺害計画の事実を否定した。

韓国国家情報院の報告書

2007年10月24日、韓国国家情報院の真相調査委員会は、当時のKCIAによる組織的な犯行だったとする報告書を発表し、韓国政府として事件への関与を初めて公式に認めた[2]盧武鉉大統領が指示した韓国現代史の見直し、独裁政権による権力犯罪の真相究明の一環として、調査は行われた。報告書は李厚洛KCIA部長が拉致を指示し、関わったKCIA要員は24人にのぼるとした。朴正熙大統領の指示の有無については、指示を裏付ける直接の証拠は見つからなかったとしつつ、「直接指示した可能性は排除できず、少なくとも暗黙の承認があった」との判断を示した[50]

同日、柳明垣駐日大使は日本国に陳謝をした[51]

同年10月30日、金大中は京都市内のホテルで会見を開き、自身の拉致事件について、朴大統領が指示したことは明らかだとの認識を示した。また、真相調査発表報告書に関して、拉致の目的は自身の殺害だったことは明らかだとし、その点を明確に指摘しなかったことは遺憾だと主張した[52]

備考

  • 警視庁によると「少なくとも4つのグループ、総勢20人から26人が事件に関与した」と公表している。アメリカ合衆国の『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』の記事によると「朴正煕と関係の深かった、韓国人ヤクザの町井久之(鄭建永〈チョン・ゴンヨン〉東声会会長)が、ホテルのフロアをほとんどすべて借り切り、KCIAに協力した」と掲載した。「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クライシャーは、アメリカ合衆国の本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を、(日本人でさえ)拷問し殺すことさえ厭わないからだ」との記事を送っている。当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人ヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。
  • 韓国政府が、金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫〈ヤン・ウォンソク〉山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリストの五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に、児玉誉士夫を通じて韓国政府と接触をとった」という。

脚注

注釈

  1. ^ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語音読みにする慣例があった。李承晩ラインなども同じである。
  2. ^ 朴正熙は尹必鏞と李厚洛、ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように部下に命じた。しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。なお、尹必鏞はこの失言を口実としてクーデターを計画しているという陰謀論が広まった末、最終的に汚職容疑で自らに近しい軍人と共に拘束・処罰された。なお、当時韓国軍内には朴政権の軍内支持派として構成されていた秘密結社「ハナフェ(ハナ会・一心会)」が存在しており、尹が事実上の後見人となっていた。この事件でハナフェの存在が発覚したが、朴正煕は軍内部の動向を把握するためハナフェを解体せず事実上黙認し、尹に近いメンバーが退役処分となるだけだった。この結果、ハナフェの創立メンバーで、実質的なリーダーであった全斗煥(後の第11・12代韓国大統領)の地位が高まることとなる。
  3. ^ 金大中の「秘書団」のひとりで、当時、在日韓国青年同盟の副委員長を務めていた金君夫は毎日新聞の取材に対し、こう証言している。「僕たちは警備は素人だけれどもね、勉強だと思いましてね、例えばフォーサイスの『ジャッカルの日』なんか、買って読んだんですよ。ドゴール大統領は、あらゆる人間、暗殺者にねらわれながらも、それをフランス警察は全部排除して、暗殺されないで死んでいきましたから」[17]

出典

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  48. ^ 『朝日新聞』1998年2月19日付朝刊、1面、「KCIAの組織的犯行 極秘内部文書で判明 金大中氏拉致事件」。
  49. ^ 青木理『日本の公安警察』講談社講談社現代新書〉、2000年1月20日、160-161頁。ISBN 978-4061494886 
  50. ^ 小菅幸一「金大中氏拉致事件の調査報告書公表」『知恵蔵』朝日新聞出版https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E6%B0%8F%E6%8B%89%E8%87%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E5%85%AC%E8%A1%A8コトバンクより2025年1月25日閲覧 
  51. ^ “金大中事件、韓国が日本に24日陳謝”. 日本経済新聞. (2007年10月24日). オリジナルの2007年10月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071024152639/http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20071024AT2M2302O23102007.html 2015年6月23日閲覧。  {{cite news}}: |accessdate=の日付が不正です。 (説明)
  52. ^ 金大中氏「拉致事件は朴正熙大統領が指示」”. wowKorea (2007年10月31日). 2025年4月15日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク


金大中拉致事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 06:22 UTC 版)

田中伊三次」の記事における「金大中拉致事件」の解説

法務大臣在任中の1973年8月発生した金大中拉致事件に関して同月23日参議院法務委員会において「私たちには大事な第六感というものがあるわけで、その第六感によれば、この国に違いない、この国の秘密警察がやったことに違いがないというようなところまでは胸の中浮かんでおるわけで…」と発言し、この大韓民国中央情報部KCIA)の関与示唆する第六感発言物議を醸した

※この「金大中拉致事件」の解説は、「田中伊三次」の解説の一部です。
「金大中拉致事件」を含む「田中伊三次」の記事については、「田中伊三次」の概要を参照ください。

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