1970年代 1972年憲法と金正日の台頭
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「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「1970年代 1972年憲法と金正日の台頭」の解説
「[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」、「三大革命赤旗獲得運動」、「南北共同声明」、「ポプラ事件」、および「文世光事件」も参照 1972年12月27日、北朝鮮は新たな憲法を制定した。この憲法は「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」と称され、「主体思想」が記された。独立時の憲法では首都は大韓民国が実効支配していたソウルとされたが、この1972年憲法では公式にそれまで首都機能の存在した平壌に定められた。また、新たに朝鮮民主主義人民共和国主席(国家主席)の地位が定められ、これまで首相だった金日成がその地位についた。 この新体制のもとで金日成主席の息子の金正日が思想・技術・文化の「三大革命」を担い、1974年には正式に後継者として指名された。指導原理としては「マルクス・レーニン主義」を継承しつつ北朝鮮の独自性を加えた「主体思想(金日成主義)」が示され、国家の指導原理となっていった。この「主体思想(金日成主義)」の解釈権は金日成・金正日が独占しているため、その権力は理念において絶対的に保障されることになった。また、金一族による世襲支配の方針が明確に示される中でその血統が神格化され、様々な革命神話を通じて一族支配の正統化・絶対化が進められた。 文化面でも、金日成が構想したとされる原作にそった『血の海』『花を売る乙女』が歌劇として上演され、映画に関心のある金正日の指導下でこれらが映画化された。1960年代末より朝鮮中央テレビが開局したこともあり、テレビ・映画(北朝鮮映画)などのメディアを利用して民衆の価値観を統一することも可能になった。 一方、外交面では1972-3年に韓国との間でいわゆる南北対話が進められ、南北共同声明が発されたが、人道面での交流を進めようとする韓国と、そもそも韓国を解放闘争の対象とみなし、外国勢力の排除を重視する北朝鮮との間で妥協点を見出すことは難しく、1973年の大韓民国中央情報部(KCIA)による金大中拉致事件の直後に交渉は中断された。
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