1970年代 1972年憲法と金正日の台頭とは? わかりやすく解説

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1970年代 1972年憲法と金正日の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:44 UTC 版)

朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「1970年代 1972年憲法と金正日の台頭」の解説

「[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」、「三大革命赤旗獲得運動」、「南北共同声明」、「ポプラ事件」、および「文世光事件」も参照 1972年12月27日北朝鮮新たな憲法制定した。この憲法は「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」と称され、「主体思想」が記された。独立時憲法では首都大韓民国実効支配していたソウルとされたが、この1972年憲法では公式にそれまで首都機能存在した平壌定められた。また、新たに朝鮮民主主義人民共和国主席国家主席)の地位定められこれまで首相だった金日成がその地位についた。 この新体制のもとで金日成主席息子金正日思想技術文化の「三大革命」を担い1974年には正式に後継者として指名された。指導原理としては「マルクス・レーニン主義」を継承しつつ北朝鮮独自性加えた主体思想金日成主義)」が示され国家指導原理となっていった。この「主体思想金日成主義)」の解釈金日成金正日独占しているため、その権力理念において絶対的に保障されることになったまた、金一族による世襲支配方針明確に示される中でその血統神格化され様々な革命神話通じて一族支配正統化・絶対化が進められた。 文化面でも、金日成構想したとされる原作にそった『血の海』『花を売る乙女』が歌劇として上演され映画関心のある金正日指導下でこれらが映画化された。1960年代末より朝鮮中央テレビ開局したこともあり、テレビ・映画北朝鮮映画)などのメディア利用して民衆価値観統一することも可能になった。 一方外交面では1972-3年に韓国との間でいわゆる南北対話進められ南北共同声明発されたが、人道面での交流進めようとする韓国と、そもそも韓国解放闘争対象とみなし、外国勢力排除重視する北朝鮮との間で妥協点見出すことは難しく1973年大韓民国中央情報部KCIA)による金大中拉致事件直後交渉中断された。

※この「1970年代 1972年憲法と金正日の台頭」の解説は、「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の解説の一部です。
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