1970年代 - 1980年代
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「東急バス」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
1971年(昭和46年)6月30日:長野線を廃止。 1973年6月(昭和48年):乗合バスが全車ワンマン化。 1974年(昭和49年):江の島線を廃止。 1975年(昭和50年)12月24日:デマンドバス「東急コーチ」自由が丘線(自由が丘駅 - 駒沢)運行開始。貸切扱いで運行。 1981年(昭和56年)6月23日:青葉台営業所が開設、高津営業所から一部路線を移管される。 1982年 第三京浜経由の京浜線(二子玉川園駅 - 横浜駅西口間)廃止。 1984年(昭和59年)3月15日:駒沢営業所が営業終了。 1986年(昭和61年)都市新バスシステム「東急バス新交通システム」を目黒営業所管内で導入。 8月23日:虹が丘営業所が開設、高津営業所・青葉台営業所から一部路線を移管される。 1987年(昭和62年)5月16日:高速通勤バスの運行を取り止め。 1988年(昭和63年)10月25日:夜間高速バス「ミルキーウェイ」和歌山線(渋谷 - 和歌山)、酒田線(渋谷 - 鶴岡・酒田)を運行開始、夜行高速バスへ参入。 12月21日:夜間高速バス「ミルキーウェイ」出雲線(渋谷 - 出雲)運行開始。 1989年(平成元年)3月3日:夜間高速バス「ミルキーウェイ」姫路線(渋谷 - 神戸・姫路)運行開始。 7月3日:深夜急行バス「ミッドナイトアロー」渋谷駅 - 青葉台駅間運行開始。
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1970年代 - 1980年代
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「ジャズ」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、グローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。
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1970年代 - 1980年代
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「マッドハウス」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
東映動画のテレビシリーズに参加するとともに、出崎統と杉野昭夫のコンビによる東京ムービーのテレビシリーズを中心にした。これは東京ムービー社長の藤岡豊がマッドハウス設立にあたって資金援助した関係によるもの。出崎と杉野がスタジオあんなぷるを設立して独立し、丸山正雄が社長に就いた1980年代には主にりんたろうが監督する角川書店製作の劇場向け作品やオリジナルビデオアニメ(OVA)を中心に制作していた。
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1970年代 - 1980年代
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「ハートにファイア」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
ウォーターゲート事件 - 1974年のリチャード・ニクソンの大統領辞任のきっかけとなったスキャンダル。 パンク・ロック - 1970年代中期にニューヨークやロンドン等で起こった音楽ムーヴメント。 メナヘム・ベギン - イスラエル首相。1977年就任。 ロナルド・レーガン - 元俳優で元カリフォルニア州知事。1980年の選挙でアメリカ合衆国大統領に就任。 パレスチナ問題 旅客機のテロ - 1970年代から1980年代初頭にかけ頻発した。 イラン革命 - 1979年に発生。 ソ連のアフガニスタン侵攻 ホイール・オブ・フォーチュン - アメリカのゲーム番組。 サリー・ライド - 1983年、アメリカの女性としては初の宇宙飛行を成功させる。 ヘヴィメタルの自殺 - 1980年代、ヘヴィメタル・ミュージシャン(オジー・オズボーン、ジューダス・プリースト)の曲を聴いて子どもが自殺したと主張する裁判が行われた。判決では、両アーティストとも自殺の原因ではないとされた。 外債 ベトナム戦争帰還兵のホームレス問題 エイズ - 1981年に初めて症例報告され、社会問題となる。 クラック - 麻薬。 バーニー・ゲッツ - ニューヨークの地下鉄で、自分を恐喝しようとした若者4人に対し発砲した人物。 浜辺の注射器 - ニュージャージー州における医療廃棄物の不法投棄問題。 六四天安門事件 - 1989年6月に中華人民共和国の北京の天安門広場にいたデモ隊数千人が軍隊に虐殺された事件。 ロックンローラーのコーラ戦争 - ペプシコーラとコカ・コーラの広告合戦。両社ともCMに有名ミュージシャンを起用した。
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1970年代 - 1980年代
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「4分33秒」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
映像作品でも『4分33秒』の演奏が流され、ケージ自身が出演するときもあった。美術家・ビデオアーティストのナム・ジュン・パイクは『ジョン・ケージ讃』(1974年)というテレビ番組を製作し、ボストンのWGBH-TVで放送された。この番組ではケージによる『4分33秒』の演奏があり、ニューヨークのハーバード・スクエア(英語版)で学生や乗り物の雑踏に包まれてピアノの前に座っている演奏と、ピアノがなく静かな演奏の2つが撮影されている。 1982年は、ケージの70歳を記念するイベントがニューヨーク、東京、ミラノ、プエルトリコのサンフアン、パリなど世界各地で行われた。ニューヨークのアッパー・ウエスト・サイドでは「すみからすみまでジョン・ケージ」というマラソン・コンサートで26作品が演奏され、『4分33秒』はチューダーが演奏した。 ケージは1989年11月に京都賞受賞のために来日した。京都では11月12日に記念講演とコンサート、名古屋では11月14日に記念コンサートが開催され、コンサートを企画した藤島寛はケージに『4分33秒』の演奏を依頼した。そこでケージは、『4分33秒』の続編にあたる『One3』を演奏した(後述)。 ケージは『4分33秒』を好んでいる点を、以下のように語っていた。 ……この音のない作品で私が気に入っていることは、これを演奏することはいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないという点です。そしてそれが実際に演奏されるたびに、驚くほど生き生きとした経験をすることができるんですよ。
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1970年代 - 1980年代
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「八幡浜市」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
九州と四国を結ぶ連絡港として施設を拡充する一方、この年代の後半、沖新田の魚市場が整備され水産物流通拠点として活況を呈する。温州ミカンは1972年(昭和47年)に全国的な生産過剰による価格大暴落を契機に、品種更新が始まり、宮内伊予柑の比率が高まる。1984年(昭和59年)3月に八幡浜浄水場が完成し、1986年(昭和61年)1月から八幡浜市・保内町へ暫定給水を開始し、夏季水不足が緩和された。 西暦年号略年譜1971年 昭和46年 国道197号線八幡浜・大洲間夜昼トンネル開通 1972年 昭和47年 フェリー桟橋関連施設の整備 1974年 昭和49年 酒六神山工場跡地に王子の森公園を建設 1980年 昭和55年 八幡浜の魚市場が統合され、八幡浜市水産物地方卸売市場を開設 1982年 昭和57年 諏訪崎自然休養林が完成
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1970年代 - 1980年代
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「サッカーイタリア代表」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
欧州王者として、2年前とほぼ変わらぬメンバーで臨んだ1970年W杯メキシコ大会では、グループリーグを突破。準々決勝では開催国メキシコを下し、準決勝は西ドイツと対戦。アステカ・スタジアムで行なわれた試合は前半8分に先制点を挙げ、リードで迎えた後半ロスタイムに西ドイツに同点ゴールを許し延長戦に突入。延長戦では打って変わって、両者合わせて5ゴールも生まれる激しい点の取り合いとなり、最終的にジャンニ・リベラの決勝ゴールで4-3の死闘を制した。この試合は、「アステカの死闘」とも呼ばれ、W杯史上数ある名勝負のひとつとして語り継がれている。決勝の相手は同じく2度の優勝を誇るブラジル。この試合は、勝てば3度目の優勝と、規則によりW杯を3回制したチームに与えられるジュール・リメ杯の永劫所有権を懸けた一戦となった。しかし準決勝の激闘による疲労と、ペレ擁するブラジルの圧倒的な攻撃力の前になす術も無く1-4の完敗。準優勝となった。 1978年アルゼンチン大会では、ロベルト・ベッテガ、パオロ・ロッシの2トップが躍動し、1次リーグを3戦全勝で勝ち上がり、4位と好成績を残す。 2度目の自国開催となったUEFA EURO 1980では、パオロ・ロッシが国内リーグの八百長疑惑に巻き込まれ、2年間の出場停止処分を受けてしまい、得点源を失った影響でベルギーに総得点差で敗れ、グループリーグ2位に終わり、決勝進出を逃し、4位という結果で終わる。 2年後の1982年W杯スペイン大会。開幕直前に処分が解けたロッシをベアルツォット監督は代表に招集したことで、懐疑的な声が多く挙がり、批判を浴びた。当時は司令塔のジャンカルロ・アントニョーニ、ドリブラーのブルーノ・コンティ、キャプテンのGKディノ・ゾフらタレントは揃っていたものの、優勝候補に挙げる者は少なかった。案の定1次リーグは、ロッシが全くの不発で無得点に終わり、3戦とも引き分けと大苦戦。総得点差で辛くも突破した。だが2次リーグではアルゼンチン戦に勝利すると続くブラジル戦で、突如としてロッシが復活。ジーコら黄金のカルテットを擁し、史上最強といわれたブラジル相手にハットトリックの大活躍。結果3-2で優勝候補のブラジルを下し準決勝に進出した。準決勝のポーランド戦でもロッシが2得点を挙げ2-0で勝利。決勝は西ドイツと対戦。ここでもロッシは先制ゴールを挙げ、3-1で西ドイツに勝利。復活したエースの活躍で1938年以来44年振り3度目の優勝に輝いた。なおロッシは大会MVP、得点王の2冠を達成している。 史上2度目の連覇を目指し臨んだ1986年メキシコ大会では、決勝トーナメント1回戦でプラティニ率いるフランスに0-2で敗戦。ベスト16で大会を去ることとなり、連覇の夢は潰えた。 UEFA EURO 1988では、2年後の自国開催のW杯を見据え、ジャンルカ・ヴィアリ、ジュゼッペ・ジャンニーニ、パオロ・マルディーニら若手主体のチームで挑み、準決勝でソ連に敗れはしたものの、ベスト4の好成績を残した。
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1970年代 - 1980年代
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「ゲイ・アイコン」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
1970年代のゲイディスコシーンにおける最初のゲイ・アイコンは"クイーン・オブ・ディスコ"と称されたドナ・サマーであり、彼女のダンスナンバーはクラブ好きのゲイコミュニティのアンセムであった。彼女の代表曲"Love to Love You Baby"(邦題:愛の誘惑)はゲイ・アンセムに留まらず、"absolute disco epic"(完全なるディスコの叙事詩)とまで評さるほど全てのセクシャリティに渡って愛された。この曲はヨーロッパのディスコから火が付いた後アメリカへ飛び火し、レコード界のムーブメントが数年に渡り影響を受けるほどのインパクトがあった。しかしながら、エイズ禍が広がりを見せ始めた1980年代にキリスト教を信仰し始めたサマーは、「AIDSはゲイに対する天罰である」と同性愛嫌悪の意見を述べたというデマが流れ 、批判の波に巻き込まれることになる。この事件で彼女はゲイ・コミュニティから見放されることになった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}1983年のアトランティックシティの後、カムバックを果たしたことを大変喜んでいたサマーはファンに話していた。サマーがキリスト教信仰を新たに始めたことを知るエイズ患者の男性ファンが、サマーに自分のために祈りを捧げて欲しいとお願いし、彼女は喜びを口にしていたが、誰かが彼女の行為が偽善的だと騒ぎ出した。その時点で会場のファンにどよめきが走り、非礼な一部のファンが「劇場から出ろ」と叫ぶなど、多くの目撃者が加熱した現場に陥っていたと証言している。サマーは「ゲイコミュニティにエイズが表れたのは、無謀なライフスタイルが原因だ」と述べているが、「エイズが神からの罰」とは語っていなかったと状況を知る複数のファンが証言している。サマーとゲイのファンが共に祈り、前述のファンにキリストの教えに戻るよう声を掛けて抱擁を交わした。 —D.L. Groover、OutSmart magazine 1980年代中盤の間、サマーの広報はデマについての否定声明を数回に渡って出し、レコード業界とゲイコミュニティの一部が彼女を支え続けた。しかしながら、サマー自身はこの件について沈黙を続け、彼女が直接言及するのは数年後のことになる。1989年に雑誌アドボケートのインタビューに答え、自分のキャリアはオープンゲイの多くのスタッフと共に築いてきたし、ゲイを理由に彼らを批難したことは一度も無いと述べ、「私は性的指向で人を見たりしない。ゲイかストレートかで人を判断したりしないわ。私の愛は人としての思いやりから成っているのよ。」と述べた。同じディスコシンガーグロリア・ゲイナーも彼女のシングル"I Will Survive"がフェミニストとゲイの社会運動のアンセムになっていることでゲイコミュニティからの大きな支持を受けていた。さらにダイアナ・ロス、グレース・ジョーンズ、メルバ・ムーア、ロリータ・ハロウェイらも、DJやゲイの客を中心にした70年代ディスコ・シーンと、LGBTコミュニティから厚い支持を受けた。 歌手のキャス・エリオットはソロ時代とママス&パパスのメンバー時代を通じてゲイ・アイコンとしてしられている。彼女のキャンプなファッション性と個性を尊重する歌詞("Make Your Own Kind of Music"や"Different"など)や、自由な恋愛や歌唱力のインパクトでも知られている。彼女の曲は1996年のゲイ映画「とても素敵なこと-初恋のフェアリーテール-」が使われている。歌手で女優のベット・ミドラーは1970年代のゲイ・アイコンとして認識されるが、ブロードウェイシアターでのパフォーマンスの後、ニューヨークのゲイ向けバスハウスのContinental Baths内のクラブでパフォーマンスを始めた。彼女はここでピアノ伴奏をお願いしたバリー・マニロウと親しくなり、その後彼がミドラーの最初のメジャーアルバム「The Divine Miss M」(1973年)をプロデュースすることとなる。 (エイズ禍が)広まる場所だったけど、(バスハウスで歌っていた)あの頃を今でも誇りに思うわ。ゲイ解放運動の先端に立っているような気分だったし、私もその役に立っていたと思いたいわ。そう、誇りを持って「バスハウスのベティ」って肩書きを持っているのよ。 —Bette Midler、Houston Voice 70年代から80年代に掛けてのゲイコミュニティで 大きな支持を得ていたアーティストに、ダイアナ・ロス、グレイス・ジョーンズ、Charo, エレイン・ペイジ,、 ドリー・パートンがいる。またイギリス人には、作家クエンティン・クリスプとクイーンのメンバーでフレディ・マーキュリーの二人のゲイが、またバイセクシャルではデヴィッド・ボウイ らがゲイ・アイコンにいる。エルトン・ジョンもこの時代にゲイ・アイコンとなっていたが、90年代にかけてより大きな存在になっていく。 ディスコ・ポピュラーミュージックの歌手で女優のシェール(Cher)は彼女の音楽性だけでなく、映画シルクウッドでレズビアンを演じてアカデミー助演女優賞にノミネートされるなど、ゲイコミュニティで重要な人物だ。彼女の娘Chastity Bonoが17歳の時にカムアウトしたが、シェールが最初に感じたことは「自責心、恐れ、哀しみ」であったという。シェールが娘の性的指向を受け入れることができた時に、彼女は自身の娘やLGBTの人々が「不公平にも、誰もが持つのと同じ権利を持っていない」という事実を実感した。シェールはLGBTの人々のゲイ・アイコンに留まらず、ゲイ・レズビアン・バイセクシャル・トランスジェンダーの子を持つストレートの親の手本となる人物にもなった。シェールは1997年のPFLAG(レズビアン・ゲイの家族と友人の会)国際会議の基調講演を務めた。シェールの音楽界における長いキャリアが多くのゲイファンの支持を集め続けている。"Gay Pride: A Celebration of All Things Gay and Lesbian"の著者William J. Mannは、「私たちが60歳になっても、90歳になったシェールの音楽で踊っているだろう。」と述べている。 メディアから"クイーン・オブ・ポップ"、"クイーン・オブ・ダンス"の異名で呼ばれ、ギネス・ワールド・レコーズに「世界で最も成功した女性歌手」の記録を打ち立てた、ポップシンガーのマドンナ(en:Madonna_as_gay_icon)は、20世紀末におけるゲイアイコンの星とも言える人物になった。雑誌The AdvocateのSteve Gdulaは、「1980年代から90年代の前半にかけて、マドンナのビデオやシングルのリリースは、祝日が来るようなものだった。少なくとも彼女のゲイファンにはね」。また、Gdulaはアメリカ国内のゲイ男性にエイズ感染の輪が拡大していた当時の背景を踏まえて「彼らの後押しでスターダムに上った他のアーティスト達が彼らとの距離を取ろうとするなかで、マドンナだけがゲイファン達に(希望の)光を当てるべく舞い戻り、まばゆい輝きを浴びせた存在だった」とコメントしている。"Madonna As Postmodern Myth: How One Star's Self-Construction Rewrites Sex, Gender"の著者Georges-Claude Guilbertは、ゲイ・アイコンとしてのマドンナへの賛辞は、ジュディ・ガーランドのものと等しく、共通点も多いと指摘している。ゲイ・アイコンについて「通例、女性のゲイ・アイコンは傷つき易いか自殺を遂げてしまったスターか、マドンナのように何者にも屈しない強いアイドルのいずれかに属している」とGuilbertは指摘している.。"Madonna: An Intimate Biography"によると、ポップスターは彼らのもっとも重要なファン層がゲイ男性であることを知っていて、彼女達は「"歴史に残るゲイ達に影響を与えた人物100人"に名が将来載るようなゲイ権利の擁護者として扱われるようにゲイ向けマガジンにアピールしている」と述べている.。マドンナは自身のバイセクシャル性や女性との親密な関係でも知られ、特にサンドラ・バーンハードとの性的関係の噂は、メディアの憶測を呼んでいる。 もう一人の歌手のスーパースターにシンディ・ローパーがいる。シンディとマドンナはウーマンリブの先駆者達である。1983年に発売されたシンディのデビューアルバム「She's So Unusual」は、彼女の代表曲ともなる"ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン"などが持つゲイフレンドリー、レズビアンフレンドリーな力強さで多くのファンを獲得した 。シンディは人々を公平に分け隔てなく扱う姿勢を60年代に自分が育ったことが原因で、「世界の視点を変えよう」という60年代の音楽の賜物だと述べている。シンディーによると「誹謗や暴力に立ち向かうコミュニティの人々…ゲイの人々を私が意識するようになっていたから、70年代前半前には、姉がカムアウトしていた」という。ローパーはそれ以来ゲイの権利擁護派に立ち、LGBTの人々への支援や権利平等派への投票の呼びかけを行っている。LGBTの権利支援の活動は、シンディが毎年行う「True Colors Tour」のテーマになっている。 アメリカ人としてお互いを知らなくてはいけないし、平等は公平でなくてはなりません。人を愛する事で差別を受けた多くの人々がいるかもしれません。より大きな声を上げましょう。声を上げ、そして投票をしてください。アメリカ人として平等に与えられた唯一の方法です。私たちは投票する権利があります。 —Cyndi Lauper、The Advocate 1980年代の中盤には、様々な文化を取り上げて新たな風を呼び込んだ告白スタイルの番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」のホストオプラ・ウィンフリーがゲイコミュニティのアイコンに浮上している。 イエール大学の社会学学者Joshua Gamsonは著書"Freaks Talk Back"で、「タブロイド・トークショーのジャンルはウィンフリーとフィル・ドナヒューが裾野を広げ、それまで性的な規格にそぐわない人々とされてきた性的少数者の人々を衝撃力の大きいメディアに登場させる機会を数十年にわたって提供してきた点で20世紀におけるどの活動よりも貢献が大きく、ゲイをメインストリームに押し上げ、また社会的受容を広げる役割を果たしている。 エレン・デジェネレスはウィンフリーに相談をした後にシチュエーション・コメディの「Ellen」のなかで自身がレズビアンであることをカムアウトした。 ウィンフリーは1990年代中盤にタブロイド・トーク体裁のジャンルから離れたが、彼女のその面における役割は、リッキー・レイクやジェニー・ジョーンズ(英語版)ジェリー・スプリンガー(英語版)などが受け継ぎ、ウィンフリーはゲイフレンドリーな番組の放送を続けている。ウィンフリーの番組「Oprah's Big Give」は同性愛を公言している司会者ネイト・バーカス(英語版)が登場する初のリアリティ番組として知られている。ウィンフリーの番組はGLAADメディア賞に幾度となくノミネートされ、2007年に賞を受賞している。 ウィンフリーのゲイ・アイコン性は、大衆文化にも広まっている。リアリティ番組の一つ「The Benefactor」では、ウィンフリーに多大な影響を受けたアフリカ系アメリカ人のゲイ男性が主人公で、彼は「ウィンフリーならどうするか?」を自問してから行動をしている。歌手アダム・ランバートもウィンフリーに大きな影響を受けたファンであることを自認している。 この年代のアイコンには他にエステル・ゲティ、Michael Teckman、ビアトリス・アーサー、ジョーン・コリンズ、アニー・レノックス、ライザ・ミネリなどがいる。
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1970年代 - 1980年代
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「海外ドラマ」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説
1970年代は『チャーリーズ・エンジェル』、『刑事コロンボ』、『大草原の小さな家』、『ルーツ』などが一世を風靡した。1980年代には『アーノルド坊やは人気者』、『ナイトライダー』、『特攻野郎Aチーム』、『将軍 SHŌGUN』などが好評を博した。また、ビデオグラムが一般家庭に登場し、80年代終盤にはレンタルビデオという手法があらわれ、『V』などがビデオレンタルによって人気を博した。 この時期は五社協定の消滅や日本の放送業界も基盤を固め、他国から番組を購入しなくてもよいほどまでに成長した。そのため以前と比べて放送時間全体の中での海外ドラマの立ち位置や総放送時間が大幅に下がり、地上波に限っていえばそのまま右肩下がりに推移して現在までに至る。また、当時はビデオレンタル以外の映像媒体が存在しないもしくは普及途上であったため、地上波での放送が激減したことにより海外ドラマを見ること自体が非常に困難となり、海外ドラマにとっては冬の時代となった。
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1970年代-1980年代
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「小学区制」の記事における「1970年代-1980年代」の解説
高校進学率はその後も上昇を続け、1970年に80%を、1974年に90%を越えた。中等教育は大衆化と言われる段階に入り、高校入学者選抜制度はほどんどの子供に関わる問題となった。公教育においては「教育の機会均等」を実現するべきであるという理念に対し、公立学校の画一性や硬直性・教育の質の低下などに対する批判として保護者や子供の選択や自己決定を重視すべきであるとする「学校選択の自由」の要求・要望も高まっていく。 1980年代半ばの臨時教育審議会(臨教審)において「学校選択権」が議論となる。1984年、学校教育法施行規則の改正により、公立高校入学検査の「同一問題、同一時期の一斉実施」を定めていた項目が削除され、受験機会の複数化が促され、従来の通学区に縛られない学科やコースが現れた。
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1970年代-1980年代
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「バスク祖国と自由」の記事における「1970年代-1980年代」の解説
1975年にフランコが死去した後に、フアン・カルロス1世国王によって進められたスペインの民主化プロセスにおいて、ETAの政治軍事部門は恩赦を受け入れて、バスクの左翼政党の民主化プロセスに加わったが、これに反対する者たちはETAの軍事部門に集まり、スペインに対する武力闘争を継続した。1979年7月29日には、バラハス空港などを標的とした連続爆破事件を起こし、空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者が出た。また、組織内の分裂は後に軍部右派によるクーデター未遂(23-F)の原因の1つとなった。 1986年から1987年の間に、政府の黙認下で非合法の反ETA組織である反テロリスト解放グループ(Grupo Antiterrorista de Liberación、GAL)が結成され、ETAのメンバーと疑わしい者を誘拐したり、殺したりした。ETAの支持者は常に治安部隊CEIAT(Cuerpo de Especial Investigación AntiTerrorismo、対テロ特捜隊)による人権侵害や拷問を非難していたが、スペイン政府がこのような不法な活動に関与したことは一度も証明された事がなかった。
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1970年代/1980年代
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「カントリー・ポップ」の記事における「1970年代/1980年代」の解説
1970年にリン・アンダーソンが発表した「ローズ・ガーデン ((I Never Promised You a) Rose Garden)」は、1970年から1971年はじめにかけて、ジャンルの境界を越えてカントリー・チャートで首位、ポップ・チャートでも最高3位に達し、「カントリー・ポップの世界的な大ヒット」となった。この曲により、アンダーソンは1971年の第13回グラミー賞で最優秀女性カントリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞(英語版)を受賞した。1973年、当時13歳だったマリー・オズモンドがデビューシングルに選んだのはアニタ・ブライアントの「ペーパー・ローゼズ」であった。オズモンドは同曲をカントリー調にアレンジし、ビルボードのカントリー・チャートで1位を記録した。 後にメインストリームのポップ歌手へと転進した、イギリス生まれオーストラリア育ちのオリビア・ニュートン=ジョンは、1973年にヒットした「レット・ミー・ビー・ゼア (Let Me Be There)」により、1974年の第16回グラミー賞で最優秀女性カントリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞し、さらに「愛しい貴方 (If You Love Me (Let Me Know))」などが評価されて、1974年のカントリーミュージック協会賞で女性ボーカリスト賞 (Female Vocalist of the Year) を獲得して、最初はまずカントリー・ポップ歌手として有名になった。 1970年代半ばからソロ歌手として活動を始めたケニー・ロジャースは、1977年に「ルシール (Lucille)」がカントリー・チャートで首位、ポップ・チャートでも最高5位に達し、以降も同様にカントリー、ポップ両方のチャートに楽曲を送り込み、後には「カントリーポップス界の大御所」とも呼ばれた。 また、1960年代からカントリーのチャートで多数のヒット曲を出していたドリー・パートンは、1970年代半ばからジャンルを超えてポップ系の市場にも進出を図るようになり、1977年の「Here You Come Again」がカントリー・チャートで首位5週、ポップ・チャートでも最高3位とジャンルを超えた大ヒットとなった。その後も同様のジャンルを超えたヒットを連発し、カントリー・ポップ歌手と見なされるようになった。 ガース・ブルックスとシャナイア・トゥエインは、1990年代に最も成功したカントリー・ポップ歌手であった。
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1970年代~1980年代
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「航空会社」の記事における「1970年代~1980年代」の解説
1978年、米国大統領のジミー・カーターが航空自由化を打ち出すと、サウスウエスト航空などの格安航空会社が急速に発展した。 日本においては、運輸省の指導によるいわゆる45/47体制の下、長らく日本航空、全日本空輸 (全日空、ANA) 、旧:日本エアシステム (JAS、現在は日本航空と合併、1988年までは東亜国内航空(TDA)) の3社体制であり、日本航空は国際線全般と国内幹線、全日空は国内線全般と国際チャーター便、東亜国内航空は国内準幹線とローカル線というすみ分けがあったが、1986年にこの枠組みは崩れて、全日空は国際線定期便に、東亜国内航空は国際線への進出が可能となり、全日空は同年から国際線定期便に進出した。東亜国内航空は国際線定期便を就航させた1988年に日本エアシステムに社名を変更した。その後の全日空は国際線も含めて日本航空とほぼ並ぶ航空会社へ成長したが、日本エアシステムはその後の経営不振で2002年に日本航空への経営統合へ至った。
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1970年代~1980年代
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「ソニック・ドライブイン」の記事における「1970年代~1980年代」の解説
ソニックの店舗は1972年に165軒に増えた。1973年から1978年にかけて、800店以上の新しい店舗が開店し、1978年にはドライブインの数は1,000軒になった。1970年代には一時期、2年間、毎日1軒以上の新しいソニック・ドライブインが開店していたほどの急激な拡大を進めていた。しかし、1973年のオイルショックによるインフレ率の上昇とガソリン価格の高騰は、ソニックのドライブイン事業を圧迫した。これに加え、有能なマネージャーが不足していたことから、1970年代半ばになると、多くのレストランが倒産することになった。500万ドルの予算で広告キャンペーンを行ったが、1980年には30万ドル近い純損失を計上した。1981年までには300店舗が閉店することになった。 1980年代は、取締役のほとんどが退社し、ケンタッキーフライドチキンやセンチュリー21で活躍したC・スティーブン・リンがソニックを率いることになった。リンは、1960年代の姿のまま営業を続けていたレストランを改造し、フランチャイズの統一を図った。1986年には、約1,000万ドルでレバレッジド・バイアウトを実施し、ソニックを非公開化した。リンは、チェーン全体の協力体制を強化し、1987年には再び1,000店舗目を達成した。
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1970年代~1980年代
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「ミュージカル映画」の記事における「1970年代~1980年代」の解説
1960年代の終り頃には、肥大化したミュージカル映画は超大作の商業的失敗が相次ぐようになり一気に退潮。台頭してきたアメリカン・ニューシネマやSFX映画に娯楽映画の主流を譲ることになり、以後30年近くにわたって主流から外れたままの存在となる。特に題材と人材の発掘場であるブロードウェイの低調が大きく影響し、俳優・監督・その他スタッフに人を得られなくなり、質的に優れた作品は散発的に作られるのみとなった。 そうしたメインストリームの退潮の一方、エルヴィス・プレスリーやビートルズなど特定の人気ミュージシャンをフィーチャーしたジュークボックス・ミュージカルと呼ばれる小規模なミュージカル映画が1950年代半ばから作られ始め、サントラとの相乗効果でヒットを挙げるなどしていた。この路線が'70~80年代になって、特定歌手にこだわらず若者向けのキャッチーな曲をサントラに満載し、ポップス市場と強く結びついた映画を作る動きとなった。殊更に『アメリカン・グラフィティ』『サタデー・ナイト・フィーバー』らの大ヒットを手本とするもので、批評家らに高く評価される事はなかったものの、その後のミュージック・ビデオ時代の礎ともなり、また『ロッキー4』などミュージカル以外の映画の造り方にも影響を与えた。
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1970年代、1980年代
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「丸刈り校則」の記事における「1970年代、1980年代」の解説
1974年(昭和49年)、日本弁護士連合会は、埼玉県の大井町立大井中学校(現・ふじみ野市立大井中学校)の丸刈り指導について人権侵害と認定し、大井中学校校長に勧告を出した。 1970年代末、中学校で学校内暴力がはびこり、教師相手に格闘する中学生が続出したり授業妨害が横行してきたので、丸刈り校則を採用して事態を乗り切ろうとする中学校が出てきた。 1984年(昭和59年)に、「学校解放新聞」が立ち上げられ、反管理教育運動がさかんとなり、丸刈り校則問題がテレビ・新聞で大きく取り上げられるようになる。 1980年代中頃の数字で、日本全国の中学校の33%で丸刈り校則が実施された。 1985年(昭和60年)11月13日、熊本地方裁判所は玉東町立玉東中学校の丸刈り校則の無効確認と不利益処分禁止そして損害賠償を求めた訴えを棄却した。ただし、丸刈り校則の合理性には疑問の余地があるとした。また、丸刈り指導のやり方について「直接の説得」や不利益処分がないことを確認した上、全体として「違法とはいえない」としている。 詳細は「熊本丸刈り訴訟」を参照 1987年(昭和62年)4月、愛知教育大学地球環境科学領域教授の森山昭雄の三男が岡崎市立葵中学校に入学。同生徒は入学時から長髪登校を続けた。10月末、関西6府県において、全87市の内55市で市内全ての公立中学校で長髪可となる。87市の内18市で市内全ての公立中学校で丸刈り強制で、残る14市では長髪、丸刈り強制どちらも見られたが、市内で1校のみ強制というケースもいくつかあった。京都府は丸刈り強制が1校のみと非常に少ないのに対して、兵庫県では全体の3分の2近くが丸刈り強制であり、関西地区で全市一律丸刈り強制のあった18市の内10市を占めていた。 1988年(昭和63年)3月、清水市立第二中学校(現・静岡市立清水第二中学校)は、校則に合わない髪型をした男女4名の生徒の写真を卒業アルバムから外し、花壇の花の写真に差し替えた。この事件は新聞各紙で報じられ、同年3月31日には参議院法務委員会で質疑が行われるに至った。4月25日、この事件がきっかけとなり、文部省初等中等教育局長は都道府県教育委員会に対し、校則の見直しを指示。管理教育の雪どけが始まる。 1989年(平成元年)3月、前述の森山昭雄が『丸刈り校則 たった一人の反乱』を刊行。岡崎市では1991年9月に岡崎市立南中学校において頭髪の自由化が初めて導入された。
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1970年代・1980年代
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「カネスエ」の記事における「1970年代・1980年代」の解説
1974年4月、1973年から1974年まで三和へ期限付きで入社した牛田彰(1949年 - )がカネスエに入社した。同年、仕入れの合理化、品揃えの統一、配送コスト低減のため流通センターと総工費3億6,000万円で本社機構を建設し、これと同時に日本NCR製の大型コンピュータを導入した。1975年6月郊外型ショッピングセンター「ユニー一宮店」が開店。その影響を受け61億円から59億円と会社設立以来初めて売り上げが前年比で減少した。本社機構、流通センターを同時に建設したが、売上高の減少にともない借入総額が9億8,000万円に達し、「カネスエは危ないらしい」とささやかれた。 当時、店員の服装は下駄にポロシャツ、腰に“カネ末岩部商店”と白く染め抜いた前掛けであったが、一新して胸当てのある紺と白のストラップ柄のエプロン、紙製の白いキャップ、ワイシャツにネクタイ、そして革靴に改めた。1977年の売上高は65億円で、1978年は71億5,000万円、1979年は80億円、1982年には売上高が105億円に達した。 1975年に共同仕入れによる低価格化を目指し「東海セルコ」を設立し、その後「シジシージャパン」へ加盟した。1976年の売上高は66億円。同年7月社名を「株式会社カネスエ岩部商店」から「株式会社カネスエ」へ改称し、それと同時に本社所在地を現在の一宮市下川田町へ移転した。1977年に牛田彰が最高責任者となり、同年、コーポレートコピーを「ベストクォリティー ベターライフ」と制定し、メバチマグロの販売、多種多様なスパイス専用売り場の設置、輸入食品の充実を開始した。1981年、フランス語で「燭台」を意味するインストアベーカリー「ランヴァドール」が発足した。設備に3,000万円を投資し、利益率は高かったが、稲沢店、八幡店、開明店の売り上げは悪く、1986年自主開発製造をやめてテナント方式となった。 コーポレートコピー制定から5年後の1982年に、社会に対して何を提供するかという問いかけからコーポレートアイデンティティ(CI)を導入した。コーポレートコピーを「おいしいもの、いいものだけを」とし、ロゴマークは楕円を斜めに切った形をとった。この楕円は躍動感を、切り口は新鮮さと個性を表している。コーポレートカラーの■ ウルトラマリン(濃青色)は若さを表し、■ ワインレッドは高い品質とよりよい商品をイメージしている 。このCI導入にともない看板等の改変に1億円近く要した。
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