ソロ時代
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「グラシーニャ・レポラーセ」の記事における「ソロ時代」の解説
Gracinha Leporace(アルバム、PHILIPS/R765.033L)※日本国内盤は『Saudade Brasileira Vol.42』としてユニバーサルより発売。型番はUICY-3525
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ソロ時代
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愛の狩人 (1976年2月5日発売、キングレコード BS-1987、出版権 日音)愛の狩人(作詞本野丈弾、作曲金野孝、編曲土持城夫) 札幌 - 長崎おんな達 (作詞本野丈弾、作曲金野孝、編曲土持城夫) 東村山音頭 (1976年6月21日発売、キングレコード GK-20、出版権セブンシーズミュージック)東村山音頭 (作詞土屋忠司、作曲細川潤一、編曲土持城夫) ビューティフルサンデー (作詞・作曲ダニエル・ブーン、ロッド・マックイーン、編曲土持城夫) もしもお許し願えれば女について話しましょう (1976年10月発売、キングレコード GK-42、出版権 日音)もしもお許し願えれば女について話しましょう (作詞本野丈弾、作曲金野孝、編曲土持城夫) 運命が二人を分かつまで (作詞本野丈弾、作曲金野孝、編曲土持城夫) 484のブルース (1979年5月5日発売、キングレコード GK-288、出版権 全音楽譜出版社)484のブルース (作詞平田満・補詞高月ことば、作曲平田満・補曲野崎眞一、編曲八木正生) 番外地の春 (作詞柴幸夫、作曲黒木靖男、編曲高田弘) A面曲は木立じゅんへの提供楽曲(1968年)のセルフカヴァー。
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ソロ時代
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「ロッド・スチュワート」の記事における「ソロ時代」の解説
グループ時代から並行してソロ活動を続け、「マギー・メイ」や「ユー・ウェア・イット・ウェル」など、安定したヒットを飛ばしていた。やがてフェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。ジャケット写真では、まさに大西洋を一跨ぎしようとするイラストが描かれている。スティーヴ・クロッパーやジェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが多数参加した作品で、ここから「セイリング」がヒット(全英1位)。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなる。 『明日へのキック・オフ』(1977年)から数年は、カーマイン・アピス(ドラム)を中心としたバック・バンドを従えて活動。『スーパースターはブロンドがお好き』(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れた「アイム・セクシー」のヒットもあって、全米で4週連続1位に輝く。ちなみに、この「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」に非常によく似ているため、裁判となった。裁判の結果はロッドの敗訴だった。後年、盗作である事をロッド本人が認めている。 「アイム・セクシー」を収録した『スーパースターはブロンドがお好き』は、日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットを飛ばし、1979年3月のソロ初の日本公演チケットは、ハガキによる抽選販売であった。会場の収容人数が合計8万人に対し、40万通を超える応募が殺到し、日本でも人気が高いことが実証された。 ブルースロックやトラッド・フォークの路線から、渡米後は楽曲が産業ロック的になり、ロッド本人の女性スキャンダルや派手な生活も相まって、音楽ジャーナリストやロックファン、パンク・ロック勢から批判を浴びた。また80年代には、当時アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカの「サン・シティ」で公演をするミュージシャンとして、ロッドとクイーンなどは、厳しい批判を受けた。なお、人種差別に反対するアーティストたちは1980年代半ばに、「サン・シティ」というアルバムを発表している。 1980年代は打ち込みサウンドが全盛の中、作品内でも取り入れるが、一時の勢いを失う。アルバム制作はやや緩やかになるものの、精力的なワールド・ツアーを敢行。また、旧友ジェフ・ベックの『フラッシュ』(1985年)にゲスト参加。ここで歌われた「ピープル・ゲット・レディ」(インプレッションズのカヴァー)は、その後もロッドの持ち歌となった。1981年と1984年に日本公演を果たしている。 1989年、トム・ウェイツのカバー「ダウンタウン・トレイン」が久々の大ヒット。「アイム・セクシー」以来11年ぶりに、全米・全英両方のチャートでトップ10入りしたシングルとなった。1991年には「モータウン・ソング」「リズム・オブ・マイ・ハート」と立て続けに全米・全英でトップ10を記録し、翌1992年には、再びトム・ウェイツのカバー「トム・トラバーツ・ブルース」を全英トップ10に送り込む。 1991年3月からは、ヨーロッパから全米まで1年間に渡る『ヴァガボンド・ハート・ツアー』を敢行。ヨーロッパでは、60公演以上のチケットが完売、アメリカでも動員・売上記録25週連続1位を記録する過去最大規模となった。一方、1992年には8年振りの来日公演が予定に組み込まれていたが、当時の妻であるレイチェル・ハンターが出産を間近に控えていた為、残りの日程をキャンセル。ツアーは打ち切りとなった。 1993年2月、フェイセズ時代の盟友ロン・ウッドと共にMTVアンプラグドに出演。その時の演奏は、同年にはライブ・アルバム『アンプラグド』としてリリースされた(2009年にはボーナス・トラックを2曲追加、初映像化となるDVD付きのデラックス・エディションとして再発)。全英・全米で2位、日本では7位。特に全米では5週連続浮上し、セールスは300万枚を突破。一方で、全曲カヴァー曲で構成されたアルバム『ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン』が制作途中でお蔵入りとなった。(2010年にECサイト限定で商品化) 同年には、ブライアン・アダムス、スティングと共にレコーディングした映画『三銃士』の主題歌「オール・フォー・ラヴ」が全米で3週連続1位を記録。 1994年、これまでの功績が評価されロックの殿堂入りを果たすが、授賞式の2日前にノースリッジ地震が起こり、ロッドの幼い子供達が怯えていたことから「子供達を置いていけない」という理由で授賞式を欠席した。MTV「アンプラグド」の成功もあり、本来ワールドツアーは終了していたものの、1994年4月には10年振りの日本公演を敢行。海外アーティストの来日公演では異例のオーケストラは全て日本人という編成で、アンプラグドスタイルでのライブを行っている。同年12月31日、リオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ・ビーチで開催されたフリー・コンサートでは、350万人とも420万人ともいわれる観客の前で歌い、ギネス世界記録に認定される1995年にはフジテレビ系列のドラマ『沙粧妙子-最後の事件-』の主題歌に「レディ・ラック」が起用されシングル、アルバム共にヒット。再注目を集める事となり翌1996年に再来日。プロモーションとして『ニュースステーション』に出演し、同い年の久米宏とトークを繰り広げた。 2000年には甲状腺癌が判明、9か月間に渡って歌えなかったという衝撃が駆け巡ったが、アルバム『ヒューマン』のプロモーションに乗せてしまうほどで、周囲の不安を一掃した。ただ、喉の手術を機にこれまでの高音は出せなくなった為、以後、喉に負担を掛けない歌唱法に変更した。本作は70年代から所属してきたワーナー・ブラザースを離れ、同レーベルの傘下であるアトランティック・レーベル移籍第1弾アルバムである。 コンスタントにヒット・シングルを放つものの、キャリア前期に多く見られた代表作を生むには至らず、特にアメリカでは商業的に苦戦を強いられていた。ライターズ・ブロックに陥り、1990年代には楽曲のストックがほとんどなく、いくつかのオリジナル曲とカヴァー曲で構成されたアルバムを発表していた。 2002年、アトランティック・レーベルを離れ、クライヴ・デイヴィスが設立したJ RECORDSに移籍し、新境地の開拓を図る。2002年から2005年にかけては、スタンダード・ナンバーをカヴァーした『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズ4作が全米だけで830万枚の大ヒット。全世界で2000万枚以上のセールスを記録。2004年の『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.3』は、自身25年振りとなる全米1位を達成し、第47回グラミー賞の"最優秀トラディショナル・ポップ・アルバム"部門を受賞して通算13度目のノミネートで待望の初受賞となり、劇的な復活を果たした。 当初、このシリーズは3部作で完結と言われていたが、このVol.3の大ヒットもあり、最終的にVol.5まで発表した。2006年にはロック回帰を宣言したカヴァー・アルバム『グレイト・ロック・クラシックス』が再び全米1位を記録。2007年7月12日、ロンドン・バッキンガム宮殿で大英帝国第3級勲位(CBE)が授与された。 2008年にはカヴァーシリーズの続編となるソウル・アルバムの制作が進行していたが、これまで二人三脚で歩んでいたクライヴ・デイヴィスがクリスマス・アルバムの制作を提案。これをロッド側が固辞し、ニュー・アルバムの制作が見送りとなった。その代わりに、ベスト・アルバム『スーパースター・ストーリー~ザ・ベスト・オブ・ロッド・スチュワート~ (Some Guys Have All The Luck)』に切り替わったという経緯がある。 2009年3月、13年振りとなる来日公演が実現。4公演とこれまでで最も少ない公演数ではあったが、日本武道館の初日公演が完売となり、各地で盛り上がりを見せた。また、3月14日のさいたまスーパーアリーナ公演の前には、Jリーグ浦和レッドダイヤモンズからのオファーを受け埼玉スタジアム2002を訪れた。Jリーグが開幕した1993年からレッズのオフィシャルサポーターズソングとして使用されている「We are Diamonds」の原曲が「セイリング」である縁で招待された。ライブ本番前であった事からスタジアムでの歌唱などは見送られたが、サポーターに向けて映像でメッセージを送った。来日記念盤として代表作のCDがマーキュリー、ワーナー、BMGの3社から紙ジャケット仕様でリイシューされた。 2009年4月21日、ロサンゼルスで行われたジェフ・ベックのライブに飛び入りで登場し、「ピープル・ゲット・レディ」「迷信嫌い」を披露。 2009年秋、前年に見送りとなったソウル・アルバムが『ソウルブック』としてようやく発表になった(日本版は12月発売)。また、マーキュリー/ワーナー期の楽曲の別テイクや、レコーディングされながら未発表だった秘蔵音源が多数発掘された。音源の一部はすでにBOXセット『ロッド・スチュワート セッションズ 1971-1998』としてリリースされており、CDで発表されなかったアウトテイクは各アルバムのボーナストラックとしてインターネット配信された。 2010年は、イギリスを中心とした春から夏にかけてのワールド・ツアーを敢行。一部でフェイセズのリユニオンが取り上げられたが、『ソウルブック』のプロモーションとコンサート活動に専念するため、ロッドの参加は見送られた。また、『グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズの完結を公式に宣言。その最終章となるVol.5を発表した。 2011年からはスティーヴィー・ニックスとのジョイント・ライブや、ラスベガスを中心としたコンサート活動を行う。2012年6月、ユニバーサルミュージック内のヴァ―ヴ・レコードと多数のアルバム・リリースを含めた契約を交わす。同年秋には、自伝を海外で出版(翌2013年、日本でも発売)。また、キャリア初のクリスマス・アルバム『メリー・クリスマス、ベイビー』を発表。製作総指揮をデイヴィッド・フォスターが務め、全米で初登場3位を記録。全英では初登場2位を記録した。本作と同時進行で、ロック・アルバムを制作中であることがアナウンスされ、アルバムには新曲がダウンロードできるミュージック・カードが封入された。 2013年春には、自身15年振りとなる作詞・作曲のオリジナルナンバーを多数含むアルバム『タイム〜時の旅人〜』を発表。1979年の『グレイテスト・ヒッツ』以来、自身34年振りとなる全英チャート1位を獲得した。これは英国の音楽史上においてボブ・ディランに次ぐ記録で、イギリス人ミュージシャンではトム・ジョーンズの32年を上回る最長記録である。 2015年、前作『タイム〜時の旅人〜』に続く、自作曲を中心としたアルバム『アナザー・カントリー』を発表。ほとんどの楽曲は自宅でレコーディングされた。 2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることが発表された。 2018年、『ブラッド・レッド・ローゼズ』を発表。全英では自身5年振りとなる初登場1位を記録。一方、アメリカでは定期的なライブを除き大規模なプロモーションは行われず、スタジオ・アルバムとしては1970年代以降では最も低いチャート・アクションとなった。 2019年9月27日、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行われた公演のアンコールで、ジェフ・ベックと10年振りに共演、5曲を披露した。一夜限りのパフォーマンスになる事が春からアナウンスされていた。11月には数々のヒット曲をロイヤル・フィル・ハーモニー管弦楽団によるリアレンジ、新録のナンバーも収録した『ロッド・スチュワート・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』を発表。本作は全英で初登場3位、2週目も2位とスマッシュヒットを記録したもののトップの座を獲得するには至らず、「ソロで50周年を祝うより、イギリスで10枚目のナンバー1を祝う方がずっといい」と、ファンに向けて異例のメッセージを送った。翌週から3週続けて1位を獲得し、自身の持つ最年長記録を更新。また、ソロ50年のキャリアで初の全米クラシック・アルバム・チャート1位を記録した。 2020年2月18日、英国で開催された「Brit Awards 2020」で、ロン・ウッド、ケニー・ジョーンズと「ステイ・ウィズ・ミー」をオーケストラを従えプレイした。フェイセズが1970年3月にデビューアルバムを発表してから丸50年のアニバーサリーを飾る共演となった。
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ソロ時代
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こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。 また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。 さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式を踏襲した楽曲構成を行った。 わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている。
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