勢いを失う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 16:12 UTC 版)
F1コンストラクターとして初エントリーから5戦で3つの勝利、4つのポールポジション、そしてファステストラップを記録したマーチに対して、他のライバルチームはF1の階層の間で重要な敬意を払うようになっていた。しかしながら、戦績はハンドリングの悪さと少なくとも50 kg (110 lb)のオーバーウェイトでシーズンを始めたことで次第に低下していった。ポルシェがチーム内でのシフェールのポジションに対して支払った金額とは別に、マーチが1970年に受け取った唯一の資金は、STPからの25,000ポンドと、タイヤスポンサーのファイアストンからの27,000ポンドであった。この限られた資金と、技術的資源はフォーミュラ2、フォーミュラ3、Can-Amと関与する分野が広がったことで手薄になり、マーチはシーズンを通じて701を大きく発展させることはできなかった。ロータス・72のような先進的な競争相手が登場した後、マーチ・701はライバルに後れを取り始めた。マーチは軽量化した701/6をワークスチームのスペアシャシーとして製作するのに十分なリソースを集めることができたが、彼らはそれをレースに投入することは無かった。モナコグランプリの後、エイモンの通常シャシーである701/1を新しいモノコックの周りに完全に再構築したが、それには軽量化したサイドタンク、ホイール、ラジエターが取り付けられ、車重は約30 kg (66 lb)削減された。 第4戦ベルギーではこの軽量化された701/1でエイモンは予選3位を獲得し、スチュワートはティレルの701/2で再びポールポジションを獲得した。エイモンのチームメイトのシフェールは10番手に、ピーターソンは再びアンティーク・オートモビルズのマシンをドライブして9番手となった。決勝でスチュワートはエンジンが故障した後14周目にリタイアし、ピーターソンは最終的に1位から8周遅れでゴール、完走扱いとならなかった。シフェールは燃料問題の結果として停止を余儀なくされたが、十分な周回を終えていたため7位で完走となった。エイモンはレースの大半をペドロ・ロドリゲスのBRMの後ろ、2位のまま走行しそのままゴールとなった。優勝したロドリゲスとエイモンの差はわずか1.1秒であった。しかし、この勝利にはいくつかの論争があった。エイモンとロビン・ハードはその後、ロドリゲスの車には規則違反の大きなエンジンが搭載されていたと主張している。これは後にBRMの歴史家ダグ・ナイに反論された。ナイは切り替えが行われたという証拠もなく、当時BRMはそのようなエンジンを構築するのに十分な資源を持っていなかったとする。 2週間後、第5戦オランダグランプリがザントフォールト・サーキットで行われた。スチュワートは予選で再びフロントローを獲得した。彼はセルボ=ギャバンが南アフリカで使用した701/4を使用し、ヨッヘン・リントのロータス・72に次ぐ2番手となった。新しいチームメイトのフランソワ・セベールは701/7をドライブし、F1デビュー戦で予選15位となった。ワークス勢のエイモンは4番手、シフェールは17番手に入り、ピーターソンの黄色い701/8はシフェールにを上回って16番手となった。ベルギーグランプリとは対照的に、今度はスチュワートがリントを猛追する展開となり、彼は優勝したリントに次いで30秒差で2位となった。ピーターソンは2周遅れの9位となり、シフェールとセベールはともにエンジンの故障でフィニッシュできなかった。エイモンは1周目にクラッチトラブルでリタイアした。 エイモンのシーズンはフランスから好調に転じた。ここで彼は予選3位、ティレルのスチュワートは予選4位となり、マーチの2台がセカンドローに並んだ。決勝は優勝したリントのロータス・72から8秒遅れの2位となった。スチュワートは3分以上遅れて9位となった。セベールは1周遅れの11位となり、シフェールとピーターソンは共にリタイアとなった。続くイギリスグランプリは2週間後に行われた。エイモンとスチュワートはフランスグランプリの予選再現とは成らず、17番手および8番手となった。北米でのスケジュール空白期間にマリオ・アンドレッティがF1に戻りグラナテリの701/3をドライブ、スチュワートに次いで予選9番手となった。決勝ではエイモンは5位に終わり、セベールも1周遅れの7位、ピーターソンは8周遅れの9位となった。シフェールのサスペンションは19周目に破損し、アンドレッティもその2周後同様にサスペンションを破損、スチュワートは52周目にクラッチが破損し、いずれもリタイアした。 次戦、ホッケンハイムでのドイツグランプリでは新シャシーが取りそろえられた。アクセル・シュプリンガーからの資金援助を受けて、ツーリングカードライバーのヒューベルト・ハーネが701/9を購入、ドイツのナショナルカラーである銀色の車体でエントリーした。ハーネにとって残念なことに、彼はポールポジションタイムから7秒以内のタイムを達成できず、予選落ちとなった。予選ではピーターソンが18位、セベールが14位、アンドレッティが9位、スチュワートが7位、エイモンが6位にとどまり、シフェールがチームのファーストドライバーに初めて打ち勝って4位となった。決勝でシフェールはイグニッショントラブルのため、チェッカーが振られたときに制止していたにも関わらず完走扱いとなり、8位に入った。セベールは優勝したリントから1周遅れの7位となった。マーチ勢の最上位はセベールであった。残る3人はエンジンやトランスミッションのトラブルでリタイアとなった。当時のポイントシステムでは7位にポイントは与えられなかったため、マーチはデビュー戦から8戦目にして始めてコンストラクターズポイントを逃した。次戦オーストリアグランプリでもマーチはポイントを逃し、完走最上位はエイモンの8位であった。 しかし、オーストリアのレースからの帰国途中でマーチの状況は複雑な物となった。ドイツグランプリで予選落ちを喫したハーネがマーチに対し、欠陥車を販売したと主張し、法的手続きを開始した。ワークスチームがドイツを通過しようとすると、彼らの車と装備はドイツ警察によって没収された。マックス・モズレーは、ハーネに販売した車のテストを行うことを発表し、引き続いてアンティーク・オートモーティブの車と比較して、返却を交渉した。シルバーストンで行われたテストでロニー・ピーターソンは最初にアンティーク・オートモーティブの車をドライブし、続いてハーネの701/9をドライブし、2秒速いタイムを記録した。ハーネはその後訴えを取り下げ、競技生活から引退した。
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