ラ・ムー活動開始から解散まで
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「ラ・ムー (バンド)」の記事における「ラ・ムー活動開始から解散まで」の解説
1988年2月17日、菊池は赤坂プリンスホテルにおいて単独記者会見を行い「今後は新たに結成するロックグループ『ラ・ムー』のボーカルとして歌手活動を行う」と発表した。会見の場で菊池は「アイドルでいることに違和感を覚えていた」と転身の動機を述べ「2月24日に第一曲を発売するとともに、同日の「夜のヒットスタジオデラックス」においてバンドのメンバーを発表する」と予告した。後に明らかとなったバンドの構成は2人の黒人バックコーラスを擁する7人編成で、本人達は「ロックバンド」を名乗ったが、菊池のアイドル然としたボーカルはソロ時代と変わらず、またサウンド的にも当時の日本ではそれほど定着していなかったR&B、ファンク等の黒人音楽色が強かった。ラ・ムーの音楽についてリーダーの松浦は「アメリカのブラコンに見られるタイトなリズムに、日本人に受け入れられるナイーヴなメロディーを兼ね備えたもの」だと説明し「ロックと呼んでも歌謡曲と呼んでもよいが、どちらかと問われるならロックだ」と述べた。 こうして別の意味で話題になったものの、レコードのセールスはソロ時代を超えることはできず、オリコンで4位となった「少年は天使を殺す」以降は話題とならなくなった。 1989年9月、菊池はデビュー当初から菊池に関わってきた岩崎加允美の事務所パーフィットプロダクションに移籍、女優に専念することになり、ラ・ムーは事実上解散した。移籍後の菊池はCMでも成功し、一度路線変更に失敗したタレントとしては異例の復活を遂げた。 解散から約20年を経た2010年代のシティ・ポップのブームの中で、ラ・ムーの楽曲群がシティ・ポップとして再評価された。 筋肉少女帯の楽曲(正確にはボイスコント)の『パンクでポン』の中で、ラ・ムー時代の菊池が「真のロッカー」である、と褒め称える台詞がある。
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