ラ・ムー活動開始から解散までとは? わかりやすく解説

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ラ・ムー活動開始から解散まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 20:52 UTC 版)

ラ・ムー (バンド)」の記事における「ラ・ムー活動開始から解散まで」の解説

1988年2月17日菊池赤坂プリンスホテルにおいて単独記者会見行い今後新たに結成するロックグループ『ラ・ムー』のボーカルとして歌手活動を行う」と発表した会見の場で菊池は「アイドルでいることに違和感覚えていた」と転身動機述べ2月24日第一曲を発売するとともに同日の「夜のヒットスタジオデラックス」においてバンドのメンバー発表する」と予告した。後に明らかとなったバンドの構成2人黒人バックコーラス擁する7人編成で、本人達は「ロックバンド」を名乗ったが、菊池アイドル然としたボーカルソロ時代変わらず、またサウンド的にも当時日本ではそれほど定着していなかったR&Bファンク等の黒人音楽色が強かったラ・ムー音楽についてリーダー松浦は「アメリカブラコン見られるタイトなリズムに、日本人受け入れられるナイーヴメロディー兼ね備えたもの」だと説明しロック呼んで歌謡曲呼んでもよいが、どちらか問われるならロックだ」と述べた。 こうして別の意味話題になったものの、レコードセールスソロ時代超えることはできず、オリコンで4位となった少年天使を殺す」以降話題とならなくなった1989年9月菊池デビュー当初から菊池に関わってきた岩崎加允美の事務所パーフィットプロダクション移籍女優専念することになり、ラ・ムー事実上解散した移籍後菊池CMでも成功し一度路線変更失敗したタレントとして異例復活遂げた解散から約20年経た2010年代シティ・ポップブームの中で、ラ・ムー楽曲群がシティ・ポップとして再評価された。 筋肉少女帯楽曲正確にはボイスコント)の『パンクポン』の中で、ラ・ムー時代菊池が「真のロッカー」である、と褒め称える台詞がある。

※この「ラ・ムー活動開始から解散まで」の解説は、「ラ・ムー (バンド)」の解説の一部です。
「ラ・ムー活動開始から解散まで」を含む「ラ・ムー (バンド)」の記事については、「ラ・ムー (バンド)」の概要を参照ください。

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