ソロ時代~絶頂期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:02 UTC 版)
「ロリー・ギャラガー」の記事における「ソロ時代~絶頂期」の解説
1971年、『ロリー・ギャラガー』でソロ・デビューを飾ったギャラガーは、同年、早くも2作目『デュース』を発表した。これ以降、毎年恒例のようにヨーロッパとアメリカ・ツアーを行い、また、恩師アレクシス・コーナーからの推薦もあり、マディ・ウォーターズの『ロンドン・セッションズ』にも参加した。 翌1972年、ライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ヨーロッパ』を発表、全英アルバムチャートで9位を記録するヒットとなった。この年には、『メロディ・メイカー』誌によりトップ・ギタリスト・オブ・ザ・イヤーに選出された。 1973年には『ブループリント』と『タトゥー』を発表。この2作からキーボードが導入されている。また、この年にはジェリー・リー・ルイスの『ザ・ロンドン・セッション』にも参加している。 1974年にはアイルランド・ツアーを行い、その様子はトニー・パーマー監督によってフィルムに収められた。このツアーから、『ライヴ・イン・アイルランド』が生まれた。これは、世界で200万枚以上のセールスを上げる大ヒットとなった。そして、この年には初めて来日、東京、名古屋、大阪で公演が行われている。 翌1975年には、ポリドールからクリサリスに移籍し、『アゲインスト・ザ・グレイン』を発表。再び来日ツアーを行なった。スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージでアルバート・キングと共演したのもこの年のことだった。 この頃、ミック・テイラーの後任としてザ・ローリング・ストーンズに加入する話が持ち上がった。ギャラガーがそれを断った説、オーディションで落ちた説、契約寸前までいっていたとする説、また一緒にレコーディングをしたとする説など、一体どれが真実なのかわからないが、少なくともギャラガーに対してストーンズが強い興味を示し、しかしながらバンドへの加入は実現しなかった、ということだけは確かだ。 ちなみに同じ頃、ディープ・パープルを抜けたリッチー・ブラックモアの後釜に、デイヴィッド・カヴァデールは第一候補にジェフ・ベック、第二候補にギャラガーを考えていたという話もある(結局バンドにはトミー・ボーリンが加入した)。 1976年にはそのディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーを共同プロデュースに迎えた『コーリング・カード』を発表した。 翌1977年には、ドイツのテレビ番組『ロックパラスト』に出演し、その模様はヨーロッパ全土にオンエアされた。また、3度目の来日公演も行なった。その後、再びトリオ編成に戻って、1978年には『フォト・フィニッシュ』、1979年には『トップ・プライオリティ』、1980年には『ステージ・ストラック』をリリース。また、ヨーロッパやアメリカ・ツアーなど、ライヴ活動も変わらず精力的に行っていた。
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