運行開始
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東京遊覧乗合自動車による東京市内の遊覧バスの営業が始まったのは、1925年(大正14年)12月15日からである。毎日運行。上野営業所に午前9時、または新橋営業所に午前10時に乗車する。宮城(皇居)、日比谷公園、芝公園、愛宕山、泉岳寺、明治神宮、東宮御所、東京招魂社、上野公園、浅草観音、被服廠跡、銀座通りなどを8時間かけて回るコースであった。 出発から一巡して営業所に戻るまで約8時間。そのうち乗車時間が約3時間で下車して見学する時間が約4時間半、残り30分が昼食休憩であった。昼食休憩は、明治神宮前で行い、ここに休憩所と食堂が用意されていた。休憩所にはお茶の用意があり、また食堂には定食が50銭で用意されていた。 乗車料は開業当初が大人3円、12歳以下2円であった。翌年には大人3円50銭、12歳以下2円50銭となる。貸切運行は20人乗り1台が60円。 遊覧運行には通常、案内人は2人がつく。また貸切営業も行っており、この場合、発車時間は随時。貸切で乗客数が多い場合は案内人の数を増やして対応する場合もあった。
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運行開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:16 UTC 版)
福井鉄道では、2006年(平成18年)4月21日より運行を開始した。ただし、当初は歯数比など下回りにかなりの改造が加えられた影響か、車両不具合のため運用休止が多発。5月中旬より順次復帰している。 車体塗装は白を基調としており、前面部窓の下と飾り部分の間、および側面部の窓部分に青帯、車両下部に黄緑と緑の帯が塗装されている。それぞれの色が、福井県の雪、海、野、山を表現している。また、側面部の運転席側ドア付近に福井鉄道のロゴマークが配されている。このデザインは、同じく福井鉄道に譲渡されたモ800形・モ770形も共通である。 走行機器は歯車比の変更、弱め界磁機能の追加、単電圧化等が行われた。集電装置は菱形パンタグラフからシングルアーム式パンタグラフに換装されている。2016年(平成28年)3月27日から福井鉄道とえちぜん鉄道三国芦原線の相互直通運転が開始されたが、770形と異なり本形式は直通運転に使用されない。
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運行開始
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「パルジファル (列車)」の記事における「運行開始」の解説
1957年夏にTEEが発足した際、パリ - ドルトムント間にはTEEパリ・ルール一往復が設定された。冬ダイヤ移行後の同年10月3日、この区間にもう一往復のTEEが新設され、「パルジファル」と命名された。パリ・ルールがドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)の気動車を用いていたのに対し、パルジファルはフランス国鉄の気動車を用いていた。ダイヤは午前中がドルトムント行、夕方がパリ行とパリ・ルールとは対称になっていた。また、パルジファルはパリ・ルールと比べ西ドイツ国内の停車駅が少なくなっていた。 翌1958年6月1日のダイヤ改正で停車駅の変更が行なわれ、パリ・ルールと同じ駅に停車駅になった。1959年夏のダイヤ改正では一旦パリ - デュッセルドルフ間に短縮された。
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運行開始
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「ニューヨーク市地下鉄V系統」の記事における「運行開始」の解説
当系統は1980年代前半から構想があり、当初は63丁目線を経由する計画であった。2001年12月17日に運行を開始したが、53丁目を経由するように変わった。この関係で、63丁目線を走る系統はF系統に変わった。また、G系統はコート・スクエア駅止まりとなった。 しかし、当系統が運行開始したことに伴い、E系統は53丁目方面へ向かう唯一の急行列車となってしまう。そのため、少なからず不満を抱いている乗客などもいた。 2005年1月23日、チェンバーズ・ストリート駅で火災が発生。C系統が運休になる。このため当系統が臨時でユークリッド・アベニュー駅へ、2月2日まで乗り入れていた。
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運行開始
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1959年4月1日、5500系1次車として16両が投入され、名古屋本線の特急列車への運用が開始された。同年12月には2次車として14両が投入され、特急列車の全車冷房化が実現した。これによって、それまで特急で使用されていた5000系・5200系については急行運用に転用されることになった。運用開始当初は4両編成と2両編成を連結した6両編成を基本として運用され、運転台同士が連結される部分では貫通幌も使用されていた。 特別料金を徴収しない列車での冷房化は、南海鉄道(当時)で1936年から1937年にかけて導入実績があるが、本格的に冷房化を行ったのは、この5500系が初めてであった。この当時、一般家庭やマイカーにも冷房はなく、鉄道車両においても冷房を搭載した一般列車はほとんどなかったため、沿線住民や利用者を驚かせた。 しかし、当時名鉄で乗務員や検修担当者の教育を行う施設である名古屋鉄道教習所で教官として勤務していた白井昭にとっては、5500系は満足できる車両ではなかった。これは、5200系で客室窓が1枚窓の下降窓だったものが5500系では2段窓に戻されてしまった上、客室から前方風景がよく見えないという理由で、「独創的なところが何もない」と感じていたのである。5500系の登場後、副社長の土川元夫は白井に対して5500系をどう思うか質問したが、白井は「エレガントさがない。夢も希望もない」と即答した。その一方、白井は5500系の主電動機・発電機・制御器などについては「高度化に大きな意義がある」と評価しており、その後白井が開発責任者となる7000系パノラマカーでは、電装品は基本的に5500系を基本とした改良品が採用された。
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運行開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:21 UTC 版)
1961年4月22日、完成した7000系パノラマカーの最初の編成が神宮前駅で報道公開された。この時は報道関係者が撮影のために本線上に脚立を立て、運転台には6人も入り込む騒ぎであった。5月15日には監督官庁、鉄道関係者、メーカー、マスコミらを招待して新名古屋から新岐阜間で試乗会を実施した。この試乗会では4000人が参加し、デザインを担当した萩原政夫も参加した。名鉄はその後も株主や沿線住民らを対象に積極的に試乗会を行って好評を博し、運行開始までに20,000kmほど走行することになった。 また、この時期には新しい鉄道趣味雑誌として地元名古屋市の交友社より『鉄道ファン』が創刊されたが、この雑誌の初代編集長には7000系のデザインを担当した萩原が就任し、『鉄道ファン』創刊号の表紙は廣田尚敬の撮影による7000系の写真であった。 同年6月1日、豊橋駅3番線にて発車式が挙行され、午前9時4分に同駅を発車する特急新岐阜行きから、7000系パノラマカーの営業運行が開始された。同年6月12日にはダイヤ改正が行われ、最高速度は105km/hから110km/hに引き上げられた。これによって特急は新岐阜と新名古屋の間を最速27分、新名古屋と豊橋間を56分、豊橋と岐阜の間を3時間で往復する運用が可能となり、日本の私鉄では初めて1日の走行距離が1,000kmを超える運用も登場した。運行開始後のパノラマカーは人気を集め、特急の始発駅である豊橋駅と新岐阜駅では、乗客が展望席の最前列に着席するために数時間も前から待つ光景も見られた。また、国鉄との共同使用駅の豊橋駅では国鉄の優等列車から乗り換える人も続出した。このような人気を受けて、名鉄は翌1962年1月中旬に7004号の展望室と客室前部扉上の2か所に光電管式のデジタル速度計を設置し、その後の新造車には全車に設置されることとなった。 これとあわせて、宣伝用の短編映画『ぼくらの特急』の撮影も行われた。この映画の撮影のために、1961年9月には機能試験も兼ねて10両編成での運転が行われた。また、複線の線路上で、撮影用電車と7000系を同じ方向に走らせ、7000系が追い上げてくるシーンの撮影も行われた。国鉄の特急「こだま」を並行区間で追い越すシーンを撮影しようとしたが、この時は注意信号が出ていて減速せざるを得ず、これは失敗であった。また、「パノラマカーは沿線住民の通勤の足に使われてこそ価値がある」という思想を反映し、展望室でスーツ姿で新聞を読む乗客や、立っている乗客も映された。
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「小田急3100形電車」の記事における「運行開始」の解説
1963年1月から2月にかけて2編成が入線し、同年3月14日には試運転中に130km/hの速度を記録したが、これは当時の小田急線内での最高速度記録である。同年3月16日から運用を開始したが、折りしも前年の1962年には小田急百貨店が営業を開始しており、1963年の夏には宣伝として、NSE車を使用した箱根特急の車内で水着ショーが開催され、話題を提供した。さらに2編成が増備され、SE車とNSE車はともに4編成ずつとなった。この年の11月ダイヤ改正からは、箱根特急は完全30分ヘッドによる運行となり、同時に新宿から小田原までの所要時間は62分にまでスピードアップされた。翌1964年には鉄道友の会よりブルーリボン賞を授与された。この年の2月から3月にかけて、わずかな期間ながら6両連接で営業運転を行なっている。 しかし、低重心化のために採用した床下ヒートポンプ式空調装置は、塵埃によるフィルターの目詰まりと、振動によるガス漏れによるトラブルが続いた。この時点では、屋根上に冷房装置を搭載する方式は塵埃・振動のいずれの面からも条件が良いことが判明していなかったため、この後に通勤車両の冷房化を行なう際には、1968年から3年間の実用テストを行なっている。 その後、1966年から1967年3月までに3編成が増備され、箱根特急は検査時以外はNSE車だけで運用できるようになった。1966年には展望室の簡易運転台撤去と列車無線設置が行なわれた。さらに、1968年にはOM-ATSと信号炎管の追設が行なわれた。 NSE車の製造数が7編成となったのは、当時目標として設定されていた「新宿と小田原を60分」での運行となった場合、1編成が折り返し時間を含めて1往復するのに要する時間を180分と考え、30分間隔で運行した場合は6編成あれば足りることから、検査入場時の予備車を考慮して全部で7編成必要、という計算であった。しかし、通勤輸送の需要予測の誤りと、それに伴う新宿駅の再度の大改良工事などの影響で、1972年には2度のダイヤ改正が行なわれたが、これ以後特急の所要時間は新宿から小田原まで最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた。この後しばらくは特急車両の新造はなかった。
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運行開始
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「スーパー・コンチネンタル (列車)」の記事における「運行開始」の解説
新車両の納入は基本的には1954年までに完了したが、カナディアン・ナショナル鉄道は従来の看板列車「コンチネンタル特急」を置き換えて新しい大陸横断の看板列車「スーパー・コンチネンタル」の運行を開始したのは1955年4月24日のことになった。これは偶然ではなく、ライバルのカナダ太平洋鉄道が新しい流線形大陸横断列車の「カナディアン」を運行開始したのと同じ日であった。しかし、新しい黒と緑に黄で装飾した塗装をまとった新造車両と改造車両であっても、「スーパー・コンチネンタル」の車両はカナダ太平洋鉄道のバッド製オールステンレス車両に比べると見劣りがした。またさらに重要な違いとしては、「カナディアン」は景色のよいドームカー(英語版)を特色としていたが、「スーパー・コンチネンタル」には連結されていなかった。カナディアン・ナショナル鉄道は経済的な理由からドームカーは購入しないことにし、またモントリオール中央駅においてかつてのカナディアン・ノーザン鉄道の通勤列車が使用していた架線にドームカーが干渉する可能性があるとしていた。1964年にカナディアン・ナショナル鉄道は、アメリカ合衆国から中古のドームカーを購入し、エドモントンとバンクーバーの間で使用することにした。 カナディアン・ナショナル鉄道が完全にディーゼル化されたのは1960年のことであったが、「スーパー・コンチネンタル」は当初から完全にディーゼル機関車牽引で、さまざまな機関車が用いられた。モントリオール・ロコモティブ・ワークス製FP-2・FP-4型、カナディアン・ロコモティブ・カンパニー製Cライナーを東部で、またゼネラルモーターズ・ディーゼル製FP9型を西部で使用した。
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運行開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 22:28 UTC 版)
「ハノーファー-ベルリン高速線」の記事における「運行開始」の解説
1998年5月24日より、ヴォルフスブルク - エービスフェルデ – シュテンダール間の新線で運行が開始され、同年9月15日からドイツの首相ヘルムート・コール、ドイツ鉄道社長ヨハネス・ルートヴィヒ、ベルリン市長エーベルハルト・ディープゲンにより公式に全線で運行が開始された。1998年9月20日のダイヤ改正でベルリン – ハノーファー間の所要時間は4時間12分(1990年)から1時間30分に短縮され、ベルリン – フランクフルト・アム・マイン間も4時間に短縮された。大幅な時間短縮により、旅客数は増加しベルリン - ハノーファー間の空路は廃止された。ブランデンブルク州の州都ポツダムやザクセン=アンハルト州の州都マクデブルクなどでは、新線の開業によってICEの接続がなくなり、その後激しい抗議が起こったため、旧線で暫くの間、臨時のICEが運行された。
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