運行開始から終戦まで
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「小田原電気鉄道チキ1形電車」の記事における「運行開始から終戦まで」の解説
1919年(大正8年)4月に7両が製造され、鉄道線の開業と同時に運用を開始したが、急曲線では車輪とレールの磨耗が激しく、レール交換を多く繰り返す事態になったため、ほどなく撒水装置を追設することになり、屋根上に水タンクが設置された。 1923年9月1日の関東大震災では、大平台駅付近で走行中の車両が転覆大破する事態になったが、焼失した車両はなく、その後全車両とも復旧している。 1926年1月16日には、小涌谷駅を発車した電車が下り勾配で速度制御に失敗し、宮ノ下付近のカーブで脱線して民家の上に転落するという事故が発生した。この事故でチキ5号は廃車となった。 1934年に鉄道線の等級制が廃止されたのと同時期に、1935年10月にチキ3号・チキ4号以外の車両について荷物室が廃止され、荷物扉も埋められた。荷物室が残された車両の形式はチキテ1形に変更され、チキ3号・チキ4号はチキテ3号・チキテ4号となった。「チキテ」の「テ」は手荷物を意味する。また、出入口に扉が設けられたほか、集電装置がパンタグラフに変更された。また、この頃に車体色が緑色1色に変更されている。 第二次世界大戦の終了後しばらくは、チキテ3号が進駐軍専用車となり、車体に白い帯を巻いた上で "U.S MILITARY CAR" の表記が施された。
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運行開始から終戦まで
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「小田原電気鉄道チキ2形電車」の記事における「運行開始から終戦まで」の解説
1927年8月に3両が製造されたが、同時に2両分の電装品と台車が輸入されており、これらの部品は湯本電車庫に保管されていた。 1935年9月にはチキ2形2両とチキ3形3両が増備された。この時に製造された車両はチキ2形とチキ3形とも、川崎車両で製造された全く同じ車体となっていた。1927年に製造された車両とは全く車体が異なるにもかかわらず2両がチキ2形の増備車とされたのは、湯本電車庫に保管されていたスイス製の電装品と台車を使用したためである。車両番号は当初よりチキ111号・チキ112号であった。チキ3形では電装品と台車はほぼ日本製となったため新しい形式となり、車両番号はチキ113号からチキ115号の連番である。 これらの車両増備は、当時計画されていた連結運転に対応したもので、少し遡る1934年10月にはチキ9号が芝浦製作所製の間接制御装置を装備し、試運転が行われていた。1935年9月にはチキ2形の全車両が芝浦製作所の間接制御に交換され、連結器も密着連結器に変更された。また、この頃に車体色が緑色1色に変更されている。 なお、チキ9号については手荷物室設置により1934年に形式称号が変更され、チキテ2形9号となっている。また、1940年5月15日には、チキ111号とチキ114号が運転中に火災が発生したため全焼したが、翌年2月には復旧されている。 第二次世界大戦の終了後しばらくは、チキ111号が進駐軍専用車となり、車体に白い帯を巻いた。
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