運行開始から休止まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/20 05:31 UTC 版)
「バルカン列車」の記事における「運行開始から休止まで」の解説
1916年1月15日から、バルカン列車はベルリンおよびシュトラスブルク、ミュンヘンとコンスタンティノープルの間で運行を開始した。ブダペストから西では、列車は以下の三つの経路に別れて運行された。 シュトラスブルク - カールスルーエ - シュトゥットガルト - ミュンヘン - ザルツブルク - ウィーン(西駅 - 北駅(ドイツ語版)) - プレスブルク(現スロバキア、ブラチスラヴァ) - ガランタ - ブダペスト ベルリン(アンハルター駅(ドイツ語版)) - ドレスデン - グロス・ヴォセク(現チェコ領ヴェルキー・オセク(チェコ語版)) - イグラウ(現チェコ、イフラヴァ) - ウィーン(北駅) - プレスブルク - ガランタ - ブダペスト ベルリン(シュレジア駅 - ブレスラウ(現ポーランド、ヴロツワフ) - オーダーベルク(現チェコ、ボフーミン(チェコ語版)) - ガランタ - ブダペスト シュトラスブルク発着の経路は大戦前のオリエント急行の経路の一部である。前二つの経路の編成はウィーン北駅で連結され、さらに三番目の編成とはガランタまたはブダペストで併結された。ブダペストからはベオグラード、ニシュ、ソフィア、アドリアノープル(エディルネ)を経由しコンスタンティノープルに至った。 列車は週に2往復運転された。ただしシュトラスブルク発着は週1往復で、ミュンヘンから週2往復となった。 バルカン列車はワゴン・リ社から接収した寝台車、食堂車のほか、沿線の邦有、国有鉄道の客車で編成されていた。戦前のオリエント急行とは異なり、編成中には座席車も含まれていた。1917年1月1日からは、バルカン列車は中央ヨーロッパ寝台・食堂車株式会社(ミトローパ)によって運営されることになった。 1917年6月1日からは、シュトラスブルク発着編成はミュンヘン以東に短縮された。また1918年5月からはヴュルツブルク発着の編成が加わり、パッサウを経由してウィーンで他の系統と合流した。 1918年冬のブルガリアの敗退により、バルカン列車の運行は困難となった。ベルリン発の最後のバルカン列車は1918年10月11日にアンハルター駅からニシュに向けて発車し、15日にベルリンに帰着した。以後は「石炭と機材の不足」を理由に運行されることはなかった。
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