りゅうせん‐けい〔リウセン‐〕【流線形/流線型】
流線
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流線(りゅうせん、英: streamline)とは、ある瞬間における流動の方向を示す曲線(群)のこと。流線上の各点の流動方向は流線の接線方向に一致する。
概要
流れ場の中にある曲線について、その線上の各点にて速度ベクトルと曲線の接線とで方向が一致するとき、この曲線を流線という[1][2]。速度を u = (u , v , w )、流線の線要素をdx = (dx , dy , dz ) と表せば
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流線形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:21 UTC 版)
「国鉄C55形蒸気機関車」の記事における「流線形」の解説
本形式が登場した時代は世界各国で鉄道車両や自動車の流線形ブームが起こっていた。これは美観とともに高速化に伴う空気抵抗を減らすことを目指したものであった。その流れに沿い、C53 43で試験された流線形構造が本形式にも本格導入され、1936年製の2次車 (20 - 40) の21両は流線形デザインにて新造された。 この構造は、形状面ではC53 43と同様に、ボイラー前端の煙室部分を斜めに欠き取り煙室扉周辺を傾斜させた上で、ボイラー全体にケーシングを被せ、前部デッキからランボード、運転台までの足回りをスカートとケーシングで覆った構造であった。これにより、炭水車でも全溶接構造の車体上部までケーシングが伸びており、台車周辺をスカートで覆うことにより一体感が演出された。 なお、C53 43では独立した大型除煙板を取り付けずボイラーケーシングの煙突周辺に小型の除煙板を形成するに留めていたが、本形式では小型除煙板に加え、ランボード上のサイドスカートから連続する形で半円形の背の低い大型除煙板も立てられた。 これらのケーシングやスカートの意図は、デモンストレーション効果だけでなく、空気の流れを良くすることで煙突から排出される煤煙が列車に絡みつくのを防ぐことであったとされる。また、流線形の初期製造車では側面にステンレス製の飾り帯が付けられていたが、後期製造車では省略された。これらの流線形機は、四国以外の全国各地に数両ずつ分散して配置され、主に急行列車を牽引した。名古屋機関区配属のC55 24 - 26は臨時特急「燕」の牽引にも起用された。 しかし、同時期のEF55形電気機関車でも採用された流線形は、当時の日本国鉄の運用状況では実用上の効果がほとんどないと判断され、さらに現場からも嫌われ、早い時期に先台車周辺のスカートや炭水車上部のケーシングの撤去が始まった。これは1940年の記録映画「鐵道信號」や同時期に撮影された写真で確認できる。流線型の実用上の効果のなさは、1936年5月に鹿児島本線で鉄道省運転課や門司鉄道局などの関係者が立会いの下10日間にわたって行われた牽引力や走行状態に関する試運転の結果、当時の鉄道省における旅客列車の最高速度である100km/h前後までの運転速度において、流線形化による製造費や機関車重量の増加に見合うほどの空力面での利点がないと判断されたものである。また現場からは、様々な部分がケーシングに覆われているため、整備点検の際にはそれらを取り外すか点検蓋を開ける必要があることから一般車より手間が余計にかかり、給水・給炭や火床整理にも不便なこと、空気シリンダーで開閉する構造だった煙室戸は故障で作業中の燃料掛が一時閉じ込められたこと、密閉式運転台はその内部に熱がこもりやすく、単線区間では通票の取り扱いにも難儀すること、炭水車は内部に設置されていた石炭押寄せ装置(炭庫後方部の押寄せ板を蒸気ピストンによって前後動させるもの)が、石炭の固着により動作不能となって故障することもあって運転中の石炭かき寄せ作業ができない、といった問題が指摘された。後に太平洋戦争が激化すると、足回りを中心にスカートやケーシングの大半を撤去し、当初の外見とは大きく異なる無惨な姿で用いられた。 戦後になると、1950年から翌1951年にかけて、これら本形式の流線形機は、残っていた流線形ケーシングが完全に撤去され、1次車とほぼ同等の外観となるように再整備が行われてその面目を一新した。ただし、特に改修を必要としなかった丸みを帯びた深い運転台の屋根や、側面の乗務員出入り口はそのまま残され、さらに蒸気ドーム前端も傾斜したままとなった。これ以外に元流線形機は「逆転棒が圧縮空気放熱管との位置関係が逆」、「棒本体の山形鋼が内外逆」といった差異が通常型とあるが、28・33号機はこれに加えて小倉工場での改造時に逆転棒が前方のみ湾曲している(D51の物に近い)ものに変えられていた。なお、流線形機から再整備された本形式の一部では、2基の安全弁がボイラーバレルよりも一段飛び出した取り付け座の上に取り付けられているなど、流線形時代の面影を残していた。これらの流線形機から再整備されたものは流線形改造機、または流改機とも呼ばれた。これらについては流線形の新車当時よりも、再整備後の方が美しい、という評もある。これら再整備後の21両は一般車と完全に同等の扱いを受け、本形式の最終期まで徐々に数を減じつつ運用された。 流線形改造機のうち北海道内で使用されていたC55 30は保存予定となっていたが、北海道総局内の手違いにより1975年2月1日に廃車後すぐに苗穂工場で解体されてしまったため、流線形改造機で保存されたものは1両もない。 C53 43を含めた一連の流線形蒸機について、開発に携わった島秀雄は当初から空気抵抗軽減の効果を期待しておらず、詳細なデータの測定もしなかった旨を度々述懐している(一方、排煙誘導の効果については一定の成功を自認している)。とはいえ、時流に従って誕生したこれらの車両は当時のメディアでもしばしば取り上げられ、時に新聞の子供向けコーナーでも扱われるなど年少者の関心対象と見なされていたことも窺える。
※この「流線形」の解説は、「国鉄C55形蒸気機関車」の解説の一部です。
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