名勝負
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:44 UTC 版)
「ナイジェル・マンセル」の記事における「名勝負」の解説
1986年スペイングランプリ レース中盤からロータスのセナとトップ争いを展開。残り9周でタイヤ交換したのち猛追し、最終ラップにセナに追いつき、最終コーナーからの加速で並びかける。両者ほぼ同時にチェッカーフラッグを受け、マンセルは勝利を確信するが、0.014秒差(距離にして93cm)という僅差でセナに軍配が上がった。 1987年イギリスグランプリ 決勝はウィリアムズ勢が3位以下を周回遅れにし、ピケとマンセルのマッチレースとなる。マンセルは途中タイヤトラブルでピットインしたが、28秒の遅れを挽回し再びピケの背後に迫る。残り3周のストウコーナーでマシンをアウト側に振るフェイントを仕掛け、反応したピケのイン側に切り込み首位に立つ。激走により燃料切れが心配されたが、マンセルのマシンは無事チェッカーフラッグを受け、ウィニングラン中にガス欠でストップした。ご機嫌の勝者はピケを抜いた場所で路面にキスをするパフォーマンスをみせた。 1989年ハンガリーグランプリ 予選は12位に低迷するが、決勝はセッティングが決まり先行車を抜いていく。パトレーゼのリタイア後トップに立ったセナとの差を詰め、58周目の第3コーナーでセナが周回遅れにつかまった好機を逃さず、一気に抜いて優勝した。ツイスティーで追い抜きが難しく、予選順位が重視されるハンガロリンクでの貴重な1勝。この年、首位走行中のセナをトラブル以外で同一周回で抜いたのは、この時のマンセルのみであった。 1989年ベルギーグランプリ 2位争いでマクラーレンのプロストを抜きあぐねたマンセルは鋭角の1コーナー、ラ・ソースからの加速スピードを稼ごうと、縁石を乗り越えエスケープゾーンを大回りするコーナリングを繰り返した。ジャーナリスト達には「無意味なアクション」と失笑されたが、のちに縁石が低く改修され、他のドライバーもスタート直後の混戦で「マンセルライン」を活用するようになった。 1990年メキシコグランプリ 予選でマンセル、プロストのフェラーリ勢は10位以下に低迷するが、決勝は2台で後方から追い上げ、タイヤ磨耗に苦しむトップのセナを攻略する。その後、スピンしたマンセルはベルガーと2位争いを展開。一度は3位に落ちるが、難関の最終コーナー、ペラルターダでベルガーをアウト側から豪快に抜き返し、プロストとワン・ツーフィニッシュを決めた。5速全開で180度旋回するペラルターダについて、マンセルは自著で「GPサーキットの最も危険なコーナーのひとつ」と解説している。 2015年にメキシコGPが復活した際、ペラルターダが低速コーナーに改修され「ナイジェル・マンセル・ターン」と命名された。 1991年スペイングランプリ チャンピオン争いに後のないマンセルは、決勝5周目に先行するセナを捉える。両者互いに譲らず、メインストレートをタイヤが触れんばかりの並走状態で駆け抜け、1コーナーでイン側のマンセルがバトルを制する。危険な超接近戦ながら、互いの技量を認めあうフェアな一騎討ちでもあった。 1992年モナコグランプリ 絶好調のマンセルは開幕6連勝に向けて独走するが、残り8周でリアタイヤの異変を感じてピットインし、セナに首位を譲る。新品タイヤに履き替え驚異的なペースで追い上げ、残り3周からデッドヒートを展開。曲がりくねったコースで激しく仕掛けるマンセルと巧みにブロックするセナの妙技は、モナコGP名勝負のひとつとなった。マンセルはセナを抜けず2位に終わり、表彰式後のシャンパンファイトでは疲労困憊で座り込んだ。 タイヤトラブルについて、マンセルはパンクと思っていたが、実際はホイールナットが緩んだことが原因だった。レース前にメカニックがタイヤを装着した時にタイヤウォーマーのストラップを噛んでしまい、ナットとハブの間にわずかな繊維が残っていたため、レース終盤に緩んでしまった。 1992年イギリスグランプリ 練習走行・予選の全セッションでトップタイムを記録。予選はチームメイトのパトレーゼに2秒近い大差をつけポールポジション。決勝でもスタートでパトレーゼの先行を許すもすぐさま抜き返し、ファステストラップ記録、全周回トップ走行とほぼ「完全優勝」を達成する。シルバーストン・サーキットには20万人の観客が詰めかけ、イギリスの国旗を振る観客の声援でマンセルの走っている位置が分かるといわれた。ウイニングラップでは興奮した観客がコースに乱入し、立ち往生してマシンから降りたマンセルを揉みくちゃにするという光景も見られた。 1992年ハンガリーグランプリ チームメイトのパトレーゼに4点差以上付けて入賞すれば悲願のワールドチャンピオンが決まる状況であったが、そのパトレーゼにポールポジションを奪われ、更に決勝レーススタートでもセカンドローのマクラーレン勢の先行を許して4位に後退。すぐさまベルガーを抜いて3位に浮上するも、抜き所の少ないコースや2位のセナの巧妙なブロックの前にトップを走るパトレーゼとの差は広がる一方であったが、レース中盤でそのパトレーゼが単独スピン、その後エンジントラブルでリタイアした事で、マンセルは3位以内に入賞すればチャンピオン決定と言う有利な状況になる。しかしレース終盤にタイヤのスローパンクチャーを察知して緊急ピットインし、6位からの追い上げを余儀なくされる。労せずして独走態勢に入ったセナを他所に、マンセルは2位集団をフレッシュタイヤの威力もあって激しく追い上げ、最終的にその先頭にいたベルガーを抜き、自身のレーサー人生を体現するかの如き展開で2位でチェッカーフラッグを受け、4度目の挑戦にして遂にワールドチャンピオンに輝く。表彰台で感極まって涙を流し、レースを制したセナも祝福した。 1994年日本グランプリ 大雨の悪コンディションの中、フェラーリのジャン・アレジと3位争いを展開。高速130Rで追い抜きを仕掛けるなど激しいバトルを演じ、最終ラップのシケインでかわす。レース後、アレジと健闘を讃えあい表彰台へ向かおうとしたが、2ヒート合計タイムで自分が4位であることを知らされ苦笑いした。この時がマンセル初にして唯一の日本グランプリ完走であった。
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