練習走行・予選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 22:33 UTC 版)
「1968年ドイツグランプリ」の記事における「練習走行・予選」の解説
土曜日のコンディションは非常に悪く、視界はわずか10ヤード (9.1 m)に過ぎなかったため、レース主催者は日曜日の朝に練習走行の追加を予定していた。まだ午前中のセッションで多くのドライバーがコースアウトを喫した。 最終的にフェラーリのジャッキー・イクスがチームメイトで2位のクリス・エイモンに10秒差を付けてポールポジションを獲得し、マトラ・MS10を駆るジャッキー・スチュワートは6番手となった。イクスは23歳216日で当時のF1史上最年少ポールシッターとなり、14年後の1982年アメリカ西グランプリでアンドレア・デ・チェザリスが22歳308日に更新するまで、記録を保持し続けた。
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練習走行・予選
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「1970年イタリアグランプリ」の記事における「練習走行・予選」の解説
ロータス、ブラバム、マーチ、マクラーレンなどのDFVエンジン勢はフェラーリ、BRM、マトラの12気筒勢のパワーに対抗するため、リアウィングを外して最高速度を上げようとした。ロータスはさらにフロントウィングも外したが、カーブで大きくスライドし、ストレートでも不安定であった。 ジャッキー・スチュワートは金曜日の練習走行でティレル・001を走らせたが機械的なトラブルに苦しみ、以後はマーチ・701のみを走らせた。その練習走行中に初めてロータス・72Cを走らせたエマーソン・フィッティパルディが最終コーナーのパラボリカでコースアウトし、土手にクラッシュした。フィッティパルディは幸いにも木の間をすり抜け、激突は免れた。同日の予選初日は、ジャッキー・イクスが暫定トップタイムを出した。 土曜日の練習走行で悲劇が起きた。ヨッヘン・リントが前日のフィッティパルディ同様、パラボリカへのブレーキングでコースを飛び出して壁にクラッシュした。マシンは両足が露出するほどまでに破損した。リントは救出されたが、病院に搬送される途中で亡くなった。当時はシートベルトの装着が義務付けられたばかりで、コックピットで前方へ滑り込んだ際に喉を切られたと考えられている(ヨッヘン・リント#事故の原因も参照)。パラボリカは、1961年の決勝でもヴォルフガング・フォン・トリップスが事故死した場所でもある。リントの事故はF1界を騒然とさせた。リントはブルース・マクラーレンとピアス・カレッジに続く、この年事故死した3人目の現役F1ドライバーとなってしまった。ロータス勢とグラハム・ヒルは以後のセッションの参加を見合わせた。 同日の予選2日目でイクスのタイムを上回る者はなく、イクスがポールポジションを獲得した。ペドロ・ロドリゲスが2番手でイクスとともにフロントローを獲得した。2列目はクレイ・レガツォーニとスチュワート、3列目はイグナツィオ・ギュンティとジャッキー・オリバーが占め、上位6台のうちスチュワートを除く5台が12気筒勢であった。そのうち3台をフェラーリ勢が占め、リントがいなくなった中、フェラーリの優位性が証明されることになった。
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