エイズ禍(1980年代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:34 UTC 版)
「日本における同性愛」の記事における「エイズ禍(1980年代)」の解説
1980年代は世界的にエイズ禍が吹き荒れた時代でもあった。日本では1985年のエイズ患者第1号の登場以降の1年間で、ゲイの置かれた状況は大きく変わってしまった。当時はまだカクテル療法(1996年)が確立されておらず、感染すればほぼ必ず死に至る不治の病であり、「エイズパニック」が起きて社会は騒然とした。このパニックはエイズは男性同性愛者特有の病気という強い偏見を伴ったものだった。 そうした偏見が醸成されたのは3つほど理由があった。第一は1980年代初頭、メディアで「アメリカの男性同性愛者の間で原因不明の奇病が発生している。」とおどろおどろしく報道されたこと。第二は1985年3月に厚生省と順天堂大学付属病院が、欧米在留が長いゲイの日本人アーティストをエイズ患者第一号にしようとしたこと(実際はその前に血友病のHIV感染者がいた)。第三は1985年8月に順天堂大学付属病院が薔薇族に持ちかけて行った読者のゲイ100人を対象にした血液検査の結果が「同性愛者の5%が陽性」と恣意的に報道されたことなどが影響した。実際にこの検査では日本人は1人のみが陽性で、残り4人は米国人でしかも米国での検査で陽性と知っていた人が再確認しただけだった。 エイズの原因も治療法もよく分からないこの頃、男性同士が握手したり、コップの回し飲みをするだけで「エイズになる」といわれたりした。ただ、ゲイの感染者が多かったのは事実で、ゲイ雑誌やゲイ団体らが積極的にHIV感染の予防啓発に取り組み始めた。ゲイ雑誌では毎号HIV問題が取り上げられ、ゲイが安心して血液検査を受けられるゲイフレンドリーな病院が紹介されたり、セーファーセックスが呼びかけられた。OCCURは東京都衛生局と共同でエイズに関するPRを行った。その他HIV陽性者のサポート・グループなどが生まれていった。
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