1970年代から1980年代
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「オーストラリアの映画」の記事における「1970年代から1980年代」の解説
1970年代、オーストラリア政府は自国の映画制作のために動き出した。1972年にはThe South Australian Film Corporation が、1975年にはAustralian Film Commissionがそれぞれ設立された。その結果、多くの優れた監督たちや俳優たちが現れ、オーストラリア独特の作品を生み出していった。その中でもピーター・ウィアーの『ピクニックatハンギング・ロック 』(1975)や ケン・ハンナムの『Sunday Too Far Away』(1975) といった作品は国際的に高い評価を得た。1970年代と1980年代はオーストラリア映画にとって黄金期とも言える時期となった。その他の目立った作品にはジョージ・ミラーのSF『マッドマックス』(1979)、ピーター・フェイマンのコメディ『クロコダイル・ダンディー』(1986)などがある。
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1970年代から1980年代
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「成人向け漫画」の記事における「1970年代から1980年代」の解説
「エロ劇画誌」および「シベール (同人誌)」も参照 劇画調のような成人向け漫画、つまり「エロ劇画」あるいは「官能劇画」は、1970年代に出現した。 劇画調の成人向けの劇画雑誌は三流劇画雑誌と呼ばれ、多くは劇画調のポルノ的な漫画が描かれた。1973年には日本初の官能劇画誌『エロトピア』が創刊された。 当初は文章中心の成人向け雑誌に発表され、すぐに専門の雑誌を生むに至る。その後、三大エロ劇画誌『漫画大快楽』『劇画アリス』『漫画エロジェニカ』が続々と創刊される。これらの雑誌は比較的表現の自由度が高く、当時の漫画界にニューウェーブを引き起こした。エロ劇画の代表的な作品に『女犯坊』がある。 1980年代まではエロ系の漫画雑誌はこの類だけであった。現在は劇画調が薄まり、アニメ絵への接近が感じられる絵柄が増えている。このようなスタイルは1980年に吾妻ひでおが自販機本『少女アリス』(アリス出版)で連載した「純文学シリーズ」が元祖である。また吾妻はアシスタントの沖由佳雄や蛭児神建らと日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』を同時期に自費出版しており、商業誌・同人誌ともにこの分野の開拓者である。 久保書店・あまとりあ社から、世界初の現在のようなスタイルの成人向け漫画誌『レモンピープル』(1982年(昭和57年)2月号創刊)が創刊される。また、1982年(昭和57年)、成人向け劇画雑誌として発行されていたセルフ出版(後の白夜書房)の『漫画ブリッコ』が、1983年(昭和58年)5月号より誌面を全面リニューアルして、『レモンピープル』の後を追うことになる。これらはロリコン漫画、及び二大ロリコン漫画誌と呼ばれ、ロリコンブームに乗ってその範囲を広げた。 その後、アニメ調の絵柄を使用した類似の雑誌が大量に発行され、劇画調の成人向け漫画が衰退していく形(ただし、なくなってはおらず、一部雑誌にいまだに残っている)で、現在に至っている。 ロリコン漫画とそれ以前の成人向け劇画では、当初は新しい表現としてはっきりとした絵柄の違いがあったが、その境界は次第に埋まりつつある。これは成人向け劇画からもアニメのような絵柄への歩み寄りがあったこと、雑誌の数が増えて作風の幅が広がったことなどが原因として挙げられる。
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1970年代から1980年代
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「教育ソフトウェア」の記事における「1970年代から1980年代」の解説
1975年、Altair 8800 の登場と共にパーソナルコンピュータの時代となり、教育ソフトウェアのあり方も大きく変化していった。それ以前はメインフレームをタイムシェアリングで使用することから、メインフレームを所有する機関に依存していたのに対して、パーソナルコンピュータ登場以後は2000ドル以下でコンピュータが購入できるようになり、家庭や学校でソフトウェアを作成/利用できるようになった。1980年代初めになると、Commodore PET や Apple II といったパーソナルコンピュータが利用できるようになり、教育ソフトウェアを専門とする企業や非営利組織が出てきた。このころの主な企業としてはブローダーバンドと Learning Company があり、非営利の教育ソフトウェア開発団体として MECC (Minnesota Educational Computing Consortium) がある。このような企業や団体がパーソナルコンピュータ向けに多数のソフトウェアを開発した。なお、その多くは Apple II 用であった。
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1970年代から1980年代
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「ハンブルガーSV」の記事における「1970年代から1980年代」の解説
1972–73シーズンにはDFBリーガポカールで優勝。国内リーグではゼーラーの引退と前後して下位に低迷したものの、クノ・クレッツァー(英語版)監督の指揮の下で後にドイツ代表となるマンフレート・カルツ、フェリックス・マガト、カスパー・メメリング(ドイツ語版)らが加入。1975–76シーズンにはDFBポカール決勝で1.FCニュルンベルクを2-0と下し2度目のタイトルを獲得すると、UEFAカップウィナーズカップ 1976-77ではベルギーのRSCアンデルレヒトを2–0と下して初のヨーロッパタイトルを獲得した。さらに1977年5月、イングランドのリヴァプールFCから当時の世界的選手の一人だったケビン・キーガンが移籍。翌1978年1月にはゼネラルマネージャーとしてギュンター・ネッツァー、同年7月には監督としてユーゴスラビアのブランコ・ゼベツ(英語版)を招聘。ストライカーのホルスト・ルベッシュも加入し1978-79シーズンにはブンデスリーガ初優勝を果たした。 UEFAチャンピオンズカップ 1979-80では準決勝でスペインのレアル・マドリードを下し決勝進出を果たすが、決勝ではブライアン・クラフの率いるイングランドのノッティンガム・フォレストFCに0-1で敗退。 1981年7月、 オーストリアのエルンスト・ハッペルが監督に就任。UEFAカップ1981-82では決勝戦でスウェーデンのIFKヨーテボリに敗れタイトルを逃したが、1981-82シーズンのブンデスリーガでは36試合無敗記録を作り、1978-79シーズン以来2度目のタイトルを獲得。27得点をあげたルベッシュが得点王となった。翌1982-83にはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場しソ連のディナモ・キエフやスペインのレアル・ソシエダを下して決勝戦へ進出すると、決勝ではイタリアのユヴェントスFCをマガトの決勝点で1-0と下し初優勝を収めた。またブンデスリーガにおいても連覇を成し遂げるなど、クラブの歴史上において最も成功した瞬間を祝った。その後、1986-87シーズンのブンデスリーガでは2位となり、DFBポカール決勝ではシュトゥットガルター・キッカーズを3-1と下して3度目のタイトルを獲得したが、ハッペルは1987年6月限りで退任した。
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