1970年代〜1980年代
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「Graphics Processing Unit」の記事における「1970年代〜1980年代」の解説
「グラフィックコントローラ#1970年代〜1980年代」も参照 コンシューマPC向けGPUの起源は1970年代から1980年代のグラフィックコントローラにさかのぼる。当時のグラフィックコントローラは、矩形や多角形の領域を単純に塗り潰したり、BitBlt(Bit Block Transfer、ビット単位でのブロック転送)などにより、2次元画像に対して簡単な描画処理を行うだけであり、その機能と能力は限定的だった。 グラフィックコントローラの中には、いくつかの命令をディスプレイリストとしてまとめて実行したり、DMA転送を用いることでメインCPUの負荷を減らしたりするものもあった。このような専用のグラフィックコントローラを用いずに、DMAコントローラで処理したり、汎用CPUをグラフィック処理専用に割り当てたグラフィックサブシステムを充てるコンピュータも存在した。汎用的なグラフィックス・コプロセッサは古くから開発されてきたが、当時の技術的な制約から安価な製品では機能や性能に乏しく、また高機能なものは回路の規模が増大し非常に高価なものとならざるを得ず、結果的にパーソナルコンピュータへ広く採用されることはなかった。 1980年代から1990年代前半にかけてはBit Block Transferをサポートするチップと、描画を高速化するチップは別々のチップとして実装されていたが、チップ処理技術が進化するとともに安価になり、VGAカードをはじめとするグラフィックカード上に実装され、普及していった。1987年のVGA発表とともにリリースされたIBMの8514グラフィックスシステムは、2Dの基本的な描画機能をサポートした最初のPC用グラフィックアクセラレータとなった。AmigaはビデオハードウエアにBlitterを搭載した最初のコンシューマ向けコンピュータであった。 1980年代後半から1990年代前半の日本国内で広く普及していたPCとしてPC-9800シリーズがあるが、同シリーズのグラフィックの描画に関連するチップにはGDCと、GRCG・EGCがある(CRTCなどもあるが、描画には関係しない)。GDCには直線・円弧・四角塗りつぶしなどの図形描画機能があり、この記事で扱っているタイプのLSIである。GDCは登場時点では比較的高機能・高性能であったが、CPUの性能向上によりその利点は薄くなっていった(そのため、当時の開発者でもそれを正確に把握していない者も多い)。GRCGは複数プレーンへの同時描画(98ではプレーンごとにセグメントアドレスを動かす必要があり面倒だった)や描画時のマスク操作などをハードウェアで行えるもので、EGCはGRCGの強化版(Enhanced Graphic Charger)である。EGCはEPSONが比較的後期まで追随しなかったことや、NECがハードウェアの仕様の公開に非積極的になった以降ということもあり、あまりよく知られていない。さらに、AGDC(Advanced 〜)やEEGC(あるいはE2GC)といったチップに至っては、非公開情報を集めた文献にもその名前以外には殆ど全く情報がない。
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1970年代〜1980年代
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「ダンドゥット」の記事における「1970年代〜1980年代」の解説
アナウンサーのアジズ・ドゥリタは、1971年頃にムラユ・モデルンが一部の人々の間でダンドゥットと呼ばれていることを知る。アジズがこの名称をラジオ番組で流し、音楽番組でも使われるようになると、リスナーの間に広まっていった。 活字メディアでは、週刊誌『テンポ』の1972年5月27日付の記事で「砂漠のリズムにインドのダン・ディン・ドゥットを融合させたムラユの歌」という記述があり、当初はインド音楽とされていた。ダンドゥットが定着し始めた時期にはエリヤ・カダム(インドネシア語版)が活躍しており、さらに1975年にはロマ・イラマの歌『夜更かし』(Begadang)が大ヒットした。この曲はクンダンのリズムを使ったダンドゥットで、ロマ・イラマはダンドゥットの歌手として知られるようになった。ムラユ・モデルンに対してダンドゥットという名称が普及した背景には、ムラユという言葉がスラウェシの地方文化として認識されるようになった事情もあった。他方でダンドゥットを好まないミュージシャンもおり、1975年にはロック専門誌『トップ』などでダンドゥットの価値をめぐってミュージシャン同士の論争が起きた。フェスティバルやディスコ、クラブなどでダンドゥットの演奏は増え、1970年代にはマレーシアにも浸透していった。 ダンドゥットの普及には、テレビやラジオ放送、カセットテープ、映画も役割を果たした。テレビはインドネシアの経済成長にともなって1970年の約13万台から1980年の約271万台に増えた。ラジオはテレビ以上に影響が大きく、1970年の250万台から1980年の1500万台に増え、ダンドゥットはジャカルタ北部の民間ラジオから全国へ広がった。カセットテープは1970年代に低価格化が進んでレコードよりも一般市民の手に入りやすくなり、1979年のポップ・インドネシアとダンドゥットのカセット売り上げの比率は1:8になったともいわれる。映画ではダンドゥットを使った作品が1970年代に上映され、特にロマ・イラマが出演した映画が成功をおさめた。
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