1970年代-1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:57 UTC 版)
「CFモンテレイ」の記事における「1970年代-1990年代」の解説
1970年5月から6月にかけてメキシコでFIFAワールドカップが開催された関係で、1970年の大会は2つの短期トーナメントに分割された。モンテレイはグループ1に組み分けられ、勝ち点18で首位のデポルティーボ・トルーカに勝ち点1差の2位となったが、後半のトーナメントでは7位だった。1970-71シーズンは優勝したクルブ・アメリカに次ぐ2位となった。1971-72シーズンにはプレーオフ(数年前に導入)に出場したが、プレーオフ準々決勝でアメリカに2試合合計1-2で敗れた。1972-73シーズンにはティブロネス・ロホス・デ・ベラクルスやグアダラハラと同勝ち点(32)の5位でプレーオフ出場を逃した。1973-74シーズンはプレーオフに出場したが、準々決勝でアトレティコ・エスパニョールに2試合合計5-6で敗れた。1974-75シーズンはグループ2で15勝14分9敗の勝ち点44を稼いだが、出場権を得たウニオン・デ・クルティドーレスに勝ち点2及ばずプレーオフ出場を逃した。1975年にはエウゼビオが加入し、10試合出場1得点を記録。1975-76シーズンは16勝12分10敗で勝ち点44を獲得し、首位でプレーオフ出場権を得た。プレーオフ準々決勝ではクルス・アスルに2試合合計7-2で勝利したが、準決勝でグアダラハラに2試合合計2-3で敗れた。1976-77シーズンは10勝12分け16敗の勝ち点32でグループ2の4位に終わり、プレーオフ出場を逃した。1977-78シーズンは勝ち点38でグループ2の4位に終わり、ヌエボ・レオン州内のライバルであるUANLティグレスに勝ち点6差を付けられてプレーオフ出場を逃した。1978-79シーズンは14勝12分け12敗で勝ち点40を獲得し、グループ1の首位でプレーオフ出場を決めた。プレーオフに出場する8クラブが2グループに分かれて総当たりのリーグ戦を行ったが、モンテレイは6試合で勝ち点6(1勝4分1敗)に終わり、UNAMプーマスに勝ち点2差のグループ3位であった。1979-80シーズンは9勝16分16敗(40得点50失点)であり、グループ1の3位であった。 メヒコ86ではハイボス・タンピコ・マデーロに2試合合計3-2で勝利してリーグ戦初優勝を飾った。ブラジル人のレイナルド・ゲルディーニやメキシコ人のフランシスコ・ハビエル・クルスなどが得点し、クルスは得点王に輝いている。1993年にはCONCACAFカップウィナーズカップで優勝し、クラブ初の国際タイトルを獲得した。
※この「1970年代-1990年代」の解説は、「CFモンテレイ」の解説の一部です。
「1970年代-1990年代」を含む「CFモンテレイ」の記事については、「CFモンテレイ」の概要を参照ください。
1970年代-1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:19 UTC 版)
「堺正章」の記事における「1970年代-1990年代」の解説
1970年のスパイダース解散後は、ソロで歌手活動を展開したほか、俳優、司会、コメディアンと多方面で活動している。 1970年にスタートした『時間ですよ』に第3シリーズの1973年まで出演し、番組人気と相まって、悠木千帆らとともに俳優としての出世作となった。 1978年から1980年にかけて『西遊記』、『西遊記II』で主役の孫悟空を務め、子どもを中心に大きな人気を集めた。1976年から『新春かくし芸大会』に出演し、毎年玄人はだしの個人芸を習得・披露してエンターテイナーぶりを発揮した。 1981年から1986年までは歌番組「ザ・トップテン」の司会も務めた。1999年には、かまやつひろし、井上堯之とユニット「ソン・フィルトル」を一時結成し、CDをリリースした。ライブ活動を皮切りに、12月31日にオリジナル曲「Yei Yei」を引っ提げて『第50回NHK紅白歌合戦』に出場した。
※この「1970年代-1990年代」の解説は、「堺正章」の解説の一部です。
「1970年代-1990年代」を含む「堺正章」の記事については、「堺正章」の概要を参照ください。
1970年代-1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:00 UTC 版)
「リトル・トーキョー」の記事における「1970年代-1990年代」の解説
3世、4世に世代の中心が移りアメリカ社会に同化し、さらに高学歴かつ裕福な層が増加した新世代の日系人達は、地価が高く治安も良く、さらに「アメリカ・トヨタ自動車販売」や「ホンダ・オブ・アメリカ」、「リコー・アメリカズ・コーポレーション」などの多くの日系企業がオフィスを構えるロサンゼルスの南部に位置するオレンジ郡やサウスベイ地区(トーランス市、ガーデナ市)、北側に隣接するグレンデール市などに住居を構える者が増え、それに併せて日本企業の駐在員もこれらの地域に住居を構えるものが増えた。また日系人向け、日本人向けのレストランや店舗もそれらの地域に移り、リトル・トーキョー地区の日系人口が減少して行った。やがてリトル東京は日本からの観光客や駐在員とその家族向けを対象とした店舗が増えた。1977年にはニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデンが開業。21階建てで洋室のほか、和室や日本庭園があり、日本からの旅行者や出張者が利用。日系人や日本人の会合の場としても頻繁に使われた。1980年にはWeller Courtが開業し横浜おかだや、松坂屋、紀伊国屋書店などが入店し、また同年にはHonda Plazaが開業し日本人(日系人)の経営による小規模店舗の商店街ができた。リトル・トーキョーには三井銀行、三菱銀行、住友銀行の支店もできた。1990年代には「加州毎日」や「新日米」、「クロスロード」等の老舗日系新聞メディアが次々と日系社会から姿を消した上に、総領事館もダウンタウンに移転した。
※この「1970年代-1990年代」の解説は、「リトル・トーキョー」の解説の一部です。
「1970年代-1990年代」を含む「リトル・トーキョー」の記事については、「リトル・トーキョー」の概要を参照ください。
1970年代 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 10:23 UTC 版)
「スーパーヒーロー映画」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説
『スター・ウォーズシリーズ』の成功により映画業界ではファンタジーとSFが関心を集め、その中で1978年に公開された『スーパーマン』は、スーパーヒーロー映画としては初めての大予算映画で、興行的な成功を収めた。1980年代に入ると同作の続編として『スーパーマンII 冒険篇』が公開され、また『ロボコップ』や『バットマン』など興行的な成功を収めるスーパーヒーロー映画が登場した。この時期の代表的なスーパーヒーロー映画として『フラッシュ・ゴードン』『怪人スワンプ・シング 影のヒーロー』『コナン・ザ・グレート』『スーパーマンIII』『スーパーガール(英語版)』『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』『悪魔の毒々モンスター』『スーパーマンIV』『Mr. India』『The Punisher』『Teenage Mutant Ninja Turtles』『Sgt. Kabukiman N.Y.P.D.』『ロケッティア』『バットマン リターンズ』『バットマン/マスク・オブ・ファンタズム』『シャドー』『バットマン フォーエヴァー』『タンク・ガール』『パワーレンジャー・映画版』『The Phantom』『Steel』『ミステリー・メン』が挙げられている。『キャプテン・アメリカ 卍帝国の野望』は劇場公開ではなくビデオ販売され、『ザ・ファンタスティック・フォー』は途中で製作が中止された。 1994年に公開された『クロウ/飛翔伝説』は、フランチャイズ化された最初のスーパーヒーロー映画の地位を確立した。同作はそれまでの若い観客向けのスーパーヒーロー映画に欠けていた暴力描写を開拓し、現代的なアクション映画との橋渡し役を果たした。同作の成功は『スポーン』製作のきっかけとなり、「よりダークな」漫画キャラクター映画の成功はコミックブック・ムービーの方向性を転換させた。マーベル・コミックはすぐに『メン・イン・ブラック』『ブレイド』を製作し、フランチャイズ化した。マーベルは『メン・イン・ブラック』の権利を所有していたマリブ・コミックを買収した後、コロンビア映画と共に同作の映画を公開し、コミックを発売した。同作は2002年に『スパイダーマン』が公開されるまでの間、最高額の興行収入記録を持つマーベルの最初の財産となった。『ブレイド』は主人公が超能力を持つ一方で大量の武器を使用するなど、伝統的なアクション映画とダーク・スーパーヒーロー映画を掛け合わせたものになった。同作の成功は、マーベル映画の成功とさらなるコミック・ムービーの活躍の場を整える契機となった。
※この「1970年代 - 1990年代」の解説は、「スーパーヒーロー映画」の解説の一部です。
「1970年代 - 1990年代」を含む「スーパーヒーロー映画」の記事については、「スーパーヒーロー映画」の概要を参照ください。
1970年代 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:22 UTC 版)
「パナソニックホールディングス」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説
1970年 - 世界初のダイレクトドライブ式ターンテーブルSP-10を発売。日本万国博覧会に松下館を出展。当時の文化の資料を収め5000年後の開封を目指したタイムカプセルを展示した。 1971年 - 「PANASONIC」ロゴを、「Panasonic」へ変更(国内向け製品では1973年まで「PANASONIC」ロゴを使用)。 1973年 - 「NATIONAL」ロゴを、「National」へ変更。パナファコム株式会社(現:株式会社PFU)を設立。韓国の亜南(アナム)グループと合弁で「亜南・ナショナル(現:亜南電子)」を設立、「Anam National」ロゴを使用しはじめる。アマチュア無線用トランシーバ「RJX-601」、製造発売。 1975年 - 同社最高級のアマチュア無線用トランシーバ「RJX-1011」製造発売開始。 1977年2月 - 山下俊彦取締役が社長に就任。 VHS方式のビデオテープレコーダ(マックロード)を発売。蛍光灯「パルック」発売。 1982年2月1日 - 業界初のカラーオーダー冷蔵庫発売。 1986年2月 - 谷井昭雄専務が社長に就任。 「パナソニック/Panasonic」ブランドを国内でも単独で使用開始。初使用した製品はMSX2パソコン「FS-A1」。この頃から「松下電器」の独自制定書体も使われなくなり、一般的なゴナ系の書体に変更される。 1987年 - 富士通FM-RのOEM仕様のデスクトップPC「PanacomM500/700」を発売。9月 - 中国に初めて合弁会社、松下彩色顕象管有限公司(カラーブラウン管製造)を設立した。 10月 - 同社初の据置型DATデッキ「SV-D1000」を発売。 1988年10月 - テレビ・ビデオデッキ・CDラジカセ・ミニコンポなどのAV家電部門が順次、「National」ブランドから「Panasonic」ブランドへ移行する。 1989年 - 新しいスタイルのナショナルショップチェーン「パナック」を立ち上げ。4月27日 - 創業者の松下幸之助が死去。享年94。 8月1日 - 本社技術部門の大規模な改革。 1990年 - MCA社(現・ユニバーサル・スタジオ)を子会社化。 1991年6月1日 - 窓口が各部門に散らばっていた社会事務室を文化支援室として本社に新設し、窓口を一本化する。 1992年8月 - AMステレオ放送対応第1号機となる携帯ラジオ「RF-U09」を発売。 10月 - 同社初にして日本初の据置型DCCデッキ 「RS-DC10」を発売。 1993年2月 - 森下洋一専務が社長に就任。 4月 -フィリップスとの合弁解消、クロスライセンス契約(cross-licensing agreement)に移行。 1994年 - ダイエー・松下戦争終結。ダイエーグループ店舗への松下電器商品の販売供給を再開する。3月20日 - 3DO REAL(FZ-1)発売。 12月 - パナソニック製AMステレオ対応受信機全体で28機目の最終モデル「ST-GT70」発売。本機を最後に翌1995年以降はAMステレオ対応受信機の新規生産を取りやめ。 1995年 - MCA社への出資分80%をシーグラム社に売却。4月 - 光ディスクPDを開発。 1997年4月 - 社内分社制を導入(関連する事業部を統合・集約)。 5月 - 同社初のデジタルカメラ「COOLSHOT II」を発売、および「COOLSHOT」ブランドの展開。 1998年 - 韓国にて「Anam National」ブランドを廃止(「Anam」ロゴは「ANAM」へ変更)。
※この「1970年代 - 1990年代」の解説は、「パナソニックホールディングス」の解説の一部です。
「1970年代 - 1990年代」を含む「パナソニックホールディングス」の記事については、「パナソニックホールディングス」の概要を参照ください。
1970年代 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:14 UTC 版)
「NHK紅白歌合戦」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説
1970年代になると新三人娘、新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。 公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつてはその規制も特に厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。第24回(1973年)にかぐや姫の『神田川』の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。第29回(1978年)でも山口百恵の『プレイバックPart2』の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(ちなみに、別音楽番組『レッツゴーヤング』『NHKヤング歌の祭典』では「真っ赤なクルマ」として歌った)。第55回(2004年)にも松平健の『マツケンサンバII』で、松平を示す「マツケン」が規制の対象となった場合の歌詞の扱いについて作詞者・吉峰暁子と協議している旨が一部メディアで報じられたが、実際には規制されなかった。 第71回(2020年)では瑛人の『香水』において、歌詞に登場する「ドルチェ&ガッバーナ」のフレーズについて広告面の問題で歌詞をそのまま使用できるかどうかの質問が報道陣より寄せられたが、NHK側は「そのままで問題ない」という見解を示しており、当日は原詞通り「ドルチェ&ガッバーナ」と歌われた。 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。第25回(1974年)から9年間白組司会を務めた山川静夫が交代となった理由のひとつは視聴率の降下であるが、それでも最後の担当回である第33回(1982年)の視聴率は69.9%(関東地区・ビデオリサーチ社調べ)だった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった第35回(1984年)の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後は視聴率が大幅に落ち込むようになった。 第29回(1978年)からステレオ放送開始。 第32回(1981年)からこれまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場歌手は舞台の後ろから入場行進をするようになった。セットが見直され、大幅な舞台装置の交換が本番中にも可能となった。また応援合戦が少なくなり、歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった(応援合戦の内容も従来の対抗色が強いものから紅白歌手入り乱れての内容が中心となった)。1980年代半ばごろから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。第42回(1991年)から入場行進、優勝旗返還、(両組司会や出場歌手の代表が行う)選手宣誓が省略され、さらにそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった。第53回(2002年)ではオーケストラが小規模ではあるが、久々に表舞台で演奏した。その後、第63回(2012年)で生演奏は廃止、バンドなどを除き事前に録音した伴奏を用いたものに変更された。同回よりエンディングの演出が華やかで明るいものとなる。第31回(1980年)までは、厳かで徐々に照明が暗くなっていく演出があった回もあった。 第31回(1980年)から第35回(1984年)の期間は「歌手による歌の祭典」という原点に立ち返るために原則応援ゲストを起用しなかった(まったく応援ゲストが登場しなかった回もある)。 第33回(1982年)より、原則ほぼすべての歌唱曲の歌詞テロップがテレビ画面上に登場するようになった。また同回では通常、出場歌手発表後に決める曲目選定を出場歌手選考中の同年9月21日から行った。各レコード会社に「今年紅白に出場させたい人たちのリストを作り、歌唱希望曲を3つ書いて提出を求めるという試みを行った(歌唱希望曲については、自身の過去のヒット曲でも他人の持ち歌でも構わない」とのものであった)。ヒット曲不足の1年を振り返り、曲目によっては出演危機の歌手にもチャンスが与えられるような印象が業界に広まり、また出場させたいリストをレコード会社が提出した時点で出演意思の判断ができるということにもなった。 第34回(1983年)- それまでステージ上には紅組白組それぞれにバック演奏を務めるフルバンドと東京放送管弦楽団を配していたが、この年からなくなった。 第34回(1983年) - 第36回(1985年)まで金杯・銀杯の授与が採用されていた。これは歌は当然のことながら、衣装などの演出面や番組中の活躍を総合的に判断して授与するものであり、優勝チームから金杯の受賞者が、敗退チームから銀杯の受賞者が選出されることとなった。 1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期にもっとも注目されたもののひとつが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、第36回(1985年)の『夫婦しぐれ』で十二単を、翌第37回(1986年)の『別離』ではクレオパトラの衣装を披露した。第42回(1991年)の『冬化粧』では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林と美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる(2人が直接対決となった回もある)。小林が巨大な機械仕掛けなのに対し、美川は間奏などにプリンセス・テンコー監修のイリュージョンで対抗している。ちなみに、小林と美川が紅白で着用する豪華衣装は高額な予算(数億単位の場合も)をかけて本番・出場歌手発表のはるか前である時期から制作開始されるほか、2人の着用衣装は大みそか当日のスポーツ新聞や民放の情報番組やワイドショーで本番前ながら紹介されていた。またこの2人以外にも紅白で豪華衣装を披露する歌手が登場することがある。 テレビでの実況は第38回(1987年)が最後となり、翌第39回(1988年)からはラジオでの実況のみとなった。 第40回(1989年)から紅白は2部構成になった。同年昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。 1989年以降、紅白の平均視聴率が低下したことなどを理由に、紅白の廃止が検討されたことがあるが、その都度廃止は取りやめとなっている。詳細は「第40回NHK紅白歌合戦#幻の「紅白廃止」と「アジア音楽祭」」を参照 1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも表れ、多数の歌手が出場した。 第41回(1990年)において、初めてNHKホール以外から中継で歌唱するという演出が行われた。番組内で中継を挿入する企画はこれより以前からあったが、「ステージ上からパフォーマンスを届けることが紅白」との制作者側の共通認識から中継歌唱は行われてこなかった。このときは長渕剛がベルリンから15分にわたって3曲を歌った。しかし、中継先で歌う演出はNHKホールの観客やほかの紅白出場歌手達にも不評を買い、その後、中継先で歌う演出は12年後の第53回(2002年)まで行わなかった(一方、中継演出が復活してからはその演出が定着している)。 また、前年は採点の対象は第2部だけだったが、同回からは第1部も採点の対象となった。その影響で、同回から放送時間の前半が『日本レコード大賞』とバッティングするようになり、歌手の奪い合いや掛け持ちによる大移動などの問題がさらに大きくなった。TBSは紅白が『レコード大賞』の裏番組となることに大慌てとなったという。TBS側はNHKに苦言を呈したほか、長時間紅白の定着により毎回視聴率30%を誇っていた『レコード大賞』は視聴率を低下させていくこととなり、ついに2006年から開催日を12月30日に繰り上げた(『レコード大賞』は紅白対策でこの年より「歌謡曲・演歌部門」「ポップス・ロック部門」の2部門、すなわち2組のグランプリを輩出させるように変更するなど、工夫を凝らすようになる)。 第42回(1991年)以降、オープニングに趣向を凝らした大がかりな構成・演出が行われるようになった。開会宣言を大物著名人が行うこともある。同回では、21時前のニュースによる中断までを第1部、21時から22時30分(森山良子・アンディ・ウィリアムスの対戦カードまで)までを第2部、22時30分から終了までを第3部とする計3部構成がとられた。ただし、第2部から第3部への移行時には中断が挿入されなかったため、ビデオリサーチ社による視聴率調査では第2部・第3部をあわせて“第2部”として取り扱われ、のちの紅白関連資料(NHKによる公式資料を含む)もこのビデオリサーチ社による区割りに則って今回の出場歌手・曲順が紹介されている。 1990年代以降、オリジナルソング・テーマソングを制作し、番組内で出場歌手らによって大合唱されるという演出が行われることがある(このときは参加者が楽譜を持って歌唱となる場合もあり)。これらの曲がのちにCD発売される、『みんなのうた』で放送される、NHK全国学校音楽コンクール課題曲に起用されるということもある。また翌年の紅白で出場歌手の歌唱曲として歌唱されるケースもある。 1990年代以降、ディズニーや人気アニメとのコラボレーション演出が行われることが多々ある。 第45回(1994年) - 第48回(1997年)までその年のNHK新人歌謡コンテストの優勝者に紅白の出場権が与えられた(1998年にNHK新人歌謡コンテストは廃止)。 紅白におけるNHKのロゴマークが第46回(1995年)から更新された。 1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPAN・LUNA SEA・GLAY・L'Arc〜en〜Cielらが出場した。 第50回(1999年)については、番組終了後、後座番組『ゆく年くる年』放送中の23時58分(30秒)ごろより画面が紅白終了直後のNHKホール内の映像に切り替わり、紅白出演者および観客による2000年に向けてのミレニアムカウントダウンの模様が放送された。その後、同回のオリジナルソングとして制作された『21世紀の君たちへ〜A song for children〜』の出演者による大合唱も行われた。通常、総合テレビの年越しの瞬間は『ゆく年くる年』内でシンプルに進行しており、さまざまな形式(大勢が賑やかに迎えることが通例)で新年のカウントダウンが行われる民放テレビ各局の年越し番組とは確実な差異があるが、この際は例外であった。また、BS2とアナログハイビジョンに於いては23時45分以降も「カウントダウンスペシャル」の名で継続放送され、翌年1月1日午前0時5分まで放送された。 詳細は、以下を参照。 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年
※この「1970年代 - 1990年代」の解説は、「NHK紅白歌合戦」の解説の一部です。
「1970年代 - 1990年代」を含む「NHK紅白歌合戦」の記事については、「NHK紅白歌合戦」の概要を参照ください。
1970年代 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:11 UTC 版)
「リコー」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説
1970年3月15日 - 日本万国博覧会に「よりよき人類の眼」をテーマとしたリコー館を出展。 1971年4月 - オフィスコンピュータ1号機「リコム8」発売。情報機器事業に進出。 5月 - 事務機器・情報機器の主力工場として厚木事業所を設立。 1972年3月 - 乾式普通紙複写機 (PPC)「リコーPPC900」発売。 1973年4月 - 世界初の電話回線網に直接接続する高速デジタルファクシミリ1号機「リファクス600S」、製品発表会で東京 - ニューヨーク間の衛星回線経由ファクス送受信に成功。 1975年2月 - 乾PPC「ニューリコピーDT1200」発売、普及機では初の2種類用紙ワンタッチ切替機構を搭載しベストセラーとなる。 1977年3月 - 東京都港区青山にリコービルを竣工、本社事務所として業務開始。 1980年 - 「リファクス600S」に搭載された通信技術をベースとした通信プロトコルが、CCITT(現:ITU-T)に採択され、T.30規格として正式勧告される。これにより規格に準拠していればメーカーや機種を問わず通信可能となり、ファクシミリの普及に寄与した。 1982年6月 - 拡大・縮小機能付きA3判PPC 「リコピーFT4060」発売、ヒット商品となる。 1985年2月 - アナログカラー複写機1号機「リコーカラー5000」発売。 3月 - 「普通紙複写機の多品種生産システムの開発」で大河内記念生産賞を受賞。 1986年4月 - 創立50周年事業としてコーポレートロゴを変更し、横浜市の港北ニュータウンにリコー中央研究所を設立。 1987年1月 - 一般オフィス向けデジタル複写機「IMAGIO 320」発売、小型化と低価格によりヒット商品となる。 1990年10月 - デジタルカラー複写機1号機「ARTAGE 8000」発売、当時の世界最速カラー出力を実現。 1992年3月 - 世界初の透明ボディフィルムカメラ「リコーFF-9sD LIMITED」を2000台限定で発売、発売日に完売となる。デザインが好評だった1990年3月発売の「リコーFF-9sD」のボディを透明プラスチックにしたもの。 1994年9月 - 超薄型コンパクトフィルムカメラ「リコーR1」発売。パトローネ部分以外を厚さ25mmとすることで世界一薄いボディを実現した。翌年5月にはカメラ記者クラブ特別賞を受賞したほか、国内外で5つの賞を受賞。 1995年5月 - コンパクトデジタルカメラ1号機「リコーDC-1」発売。記録媒体はPCカードを採用。 1996年8月 - デジタル複写機「imagio MF200」発売。当時のA3コピー機で世界最小幅の小型化と低価格で中小企業にヒットし、リコー複写機の国内出荷台数でデジタルがアナログを上回るようになる。 11月 - CD-RWディスクを生産開始。 1997年4月 - 世界初のCD-R/RWドライブ「リコーMP6200シリーズ」発売。
※この「1970年代 - 1990年代」の解説は、「リコー」の解説の一部です。
「1970年代 - 1990年代」を含む「リコー」の記事については、「リコー」の概要を参照ください。
1970年代 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 09:46 UTC 版)
「ジルベルト・ジル」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説
1970年、ワイト島音楽祭に出演。亡命先のロンドンで制作したアルバム『Gilberto Gil (Nega)』(1971年)では、英語詞の楽曲が披露され、ブラインド・フェイスのカヴァー「Can't Find My Way Home」等を収録。この頃、ジルベルトはレゲエに傾倒していく。 1972年1月、ブラジルに帰国。同年発表のアルバム『Expresso 2222』からは、「Back in Bahia」や「Oriente」がシングル・ヒット。1975年のアルバム『Gil e Jorge』には、ジョルジ・ベンと共に行ったジャム・セッションが収録された。 1979年のアルバム『Realce』には、ボブ・マーリーの歌唱で知られる「ノー・ウーマン、ノー・クライ」をポルトガル語でカヴァーした「Não Chore Mais」収録。同曲はシングルとして大ヒットした。1980年、ジミー・クリフと共にブラジル・ツアーを行う。1981年には、カエターノ・ヴェローゾやマリア・ベターニアと共に、ジョアン・ジルベルトのアルバム『Brasil』(邦題:海の奇蹟)にゲスト参加。 1986年、初の日本公演を行う。東京公演の模様は、後にライヴ・アルバム『Ao Vivo Em Tóquio (Live in Tokyo)』として発表された。1988年から1992年にかけて、サルヴァドールの市議会議員を務める。 トゥーツ・シールマンスが1992年から1993年に発表した『The Brasil Project』『The Brasil Project, Vol.2』に、ゲスト・ミュージシャンの一人としてジルベルトも参加。 1990年代におけるトロピカリアの再評価を受け、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾはコラボレーション・アルバム『Tropicália 2』(1993年)発表。両者の新曲の他、ジミ・ヘンドリックスのカヴァー「Wait Until Tomorrow」等を収録。2人は、1994年6月から7月にかけて、アメリカやヨーロッパでもコンサート・ツアーを行った。 ジルベルトは早い段階からインターネットに注目していた。1996年4月には公式サイトを開設。同年12月14日には、自身のライヴをインターネットで同時中継するという、ブラジルのミュージシャンとしては初の試みを行った。 1998年発表のライヴ・アルバム『Quanta Gente Veio Ver: Ao Vivo』は、グラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム部門を受賞、ジルベルトにとって初のグラミー受賞作となった。1999年、美術家のベネー・フォンテレスの監修により、ジルベルトをモチーフとしたアート・ブック『GiLuminoso: A po.ética do Ser』が出版された。同書の付録CDは、ジルベルトが自作曲のセルフ・カヴァーをギター弾き語りだけで録音した内容で、2006年には『Gil Luminoso』という単体のアルバムとして発売される。
※この「1970年代 - 1990年代」の解説は、「ジルベルト・ジル」の解説の一部です。
「1970年代 - 1990年代」を含む「ジルベルト・ジル」の記事については、「ジルベルト・ジル」の概要を参照ください。
- 1970年代-1990年代のページへのリンク