1970年代-1990年代とは? わかりやすく解説

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1970年代-1990年代

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CFモンテレイ」の記事における「1970年代-1990年代」の解説

1970年5月から6月にかけてメキシコFIFAワールドカップ開催された関係で、1970年大会2つ短期トーナメント分割された。モンテレイグループ1に組み分けられ、勝ち点18首位デポルティーボ・トルーカ勝ち点1差の2位となったが、後半トーナメントでは7位だった。1970-71シーズン優勝したクルブ・アメリカに次ぐ2位となった。1971-72シーズンにはプレーオフ数年前導入)に出場したが、プレーオフ準々決勝アメリカに2試合合計1-2敗れた。1972-73シーズンにはティブロネス・ロホス・デ・ベラクルスグアダラハラと同勝ち点32)の5位でプレーオフ出場逃した。1973-74シーズンプレーオフ出場したが、準々決勝でアトレティコ・エスパニョールに2試合合計5-6敗れた。1974-75シーズングループ2で1514分9敗の勝ち点44稼いだが、出場得たウニオン・デ・クルティドーレスに勝ち点2及ばずプレーオフ出場逃した1975年にはエウゼビオ加入し10試合出場1得点記録。1975-76シーズン161210敗で勝ち点44獲得し首位プレーオフ出場権得たプレーオフ準々決勝ではクルス・アスルに2試合合計7-2勝利したが、準決勝グアダラハラに2試合合計2-3敗れた。1976-77シーズン1012分け16敗の勝ち点32グループ2の4位に終わりプレーオフ出場逃した。1977-78シーズン勝ち点38グループ2の4位に終わりヌエボ・レオン州内のライバルであるUANLティグレス勝ち点6差を付けられプレーオフ出場逃した。1978-79シーズン1412分け12敗で勝ち点40獲得しグループ1の首位プレーオフ出場決めたプレーオフ出場する8クラブが2グループ分かれて総当たりリーグ戦行ったが、モンテレイは6試合勝ち点6(1勝4分1敗)に終わりUNAMプーマス勝ち点2差のグループ3位であった。1979-80シーズンは9勝1616敗(40得点50失点)であり、グループ1の3位であったメヒコ86ではハイボス・タンピコ・マデーロに2試合合計3-2勝利してリーグ戦初優勝飾ったブラジル人のレイナルド・ゲルディーニやメキシコ人のフランシスコ・ハビエル・クルスなどが得点しクルス得点王輝いている。1993年にはCONCACAFカップウィナーズカップ優勝しクラブ初の国際タイトル獲得した

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1970年代-1990年代

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堺正章」の記事における「1970年代-1990年代」の解説

1970年スパイダース解散後は、ソロ歌手活動展開したほか、俳優司会コメディアン多方面活動している。 1970年スタートした時間ですよ』に第3シリーズ1973年まで出演し番組人気相まって悠木千帆とともに俳優としての出世作となった1978年から1980年にかけて『西遊記』、『西遊記II』で主役孫悟空務め、子どもを中心に大きな人気集めた1976年から『新春かくし芸大会』出演し毎年玄人はだし個人芸を習得披露してエンターテイナーぶりを発揮した1981年から1986年までは歌番組ザ・トップテン」の司会務めた1999年には、かまやつひろし井上堯之ユニットソン・フィルトル」を一時結成しCDリリースしたライブ活動皮切りに12月31日オリジナル曲Yei Yei」を引っ提げて第50回NHK紅白歌合戦』に出場した

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1970年代-1990年代

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リトル・トーキョー」の記事における「1970年代-1990年代」の解説

3世4世世代中心移りアメリカ社会同化し、さらに高学歴かつ裕福な層が増加した新世代日系人達は、地価高く治安良く、さらに「アメリカ・トヨタ自動車販売」や「ホンダ・オブ・アメリカ」、「リコー・アメリカズ・コーポレーション」などの多く日系企業オフィス構えロサンゼルス南部位置するオレンジ郡サウスベイ地区トーランス市ガーデナ市)、北側隣接するグレンデール市などに住居構える者が増え、それに併せて日本企業駐在員もこれらの地域住居構えるものが増えた。また日系人向け、日本人向けのレストラン店舗もそれらの地域移りリトル・トーキョー地区日系人口が減少して行った。やがてリトル東京日本からの観光客駐在員とその家族向けを対象とした店舗増えた1977年にはニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデンが開業21階建てで洋室のほか、和室日本庭園があり、日本からの旅行者出張者が利用日系人日本人会合の場としても頻繁に使われた。1980年にはWeller Court開業し横浜おかだや、松坂屋紀伊国屋書店などが入店し、また同年にはHonda Plaza開業し日本人(日系人)の経営による小規模店舗商店街ができた。リトル・トーキョーには三井銀行三菱銀行住友銀行支店もできた。1990年代には「加州毎日」や「新日米」、「クロスロード」等の老舗日系新聞メディア次々と日系社会から姿を消した上に、総領事館ダウンタウン移転した

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1970年代 - 1990年代

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スーパーヒーロー映画」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説

『スター・ウォーズシリーズ』成功により映画業界ではファンタジーSF関心集めその中で1978年公開され『スーパーマン』は、スーパーヒーロー映画としては初めての大予算映画で、興行的成功収めた1980年代に入ると同作続編として『スーパーマンII 冒険篇』が公開され、また『ロボコップ』や『バットマン』など興行的成功を収めるスーパーヒーロー映画登場した。この時期代表的なスーパーヒーロー映画として『フラッシュ・ゴードン』『怪人スワンプ・シング 影のヒーロー』『コナン・ザ・グレート『スーパーマンIII』スーパーガール英語版)』『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』『悪魔の毒々モンスター『スーパーマンIV』『Mr. India』『The Punisher』『Teenage Mutant Ninja Turtles』『Sgt. Kabukiman N.Y.P.D.』『ロケッティア』『バットマン リターンズ』『バットマン/マスク・オブ・ファンタズム『シャドー』バットマン フォーエヴァー』『タンク・ガール』『パワーレンジャー・映画版』『The Phantom』『Steel』『ミステリー・メン』が挙げられている。『キャプテン・アメリカ 卍帝国の野望』は劇場公開ではなくビデオ販売され、『ザ・ファンタスティック・フォー』は途中で製作が中止された。 1994年公開された『クロウ/飛翔伝説』は、フランチャイズ化され最初スーパーヒーロー映画地位確立した同作それまでの若い観客向けのスーパーヒーロー映画欠けていた暴力描写開拓し現代的なアクション映画との橋渡し役を果たした同作成功『スポーン』製作のきっかけとなり、「よりダークな」漫画キャラクター映画成功はコミックブック・ムービーの方向性転換させた。マーベル・コミックはすぐに『メン・イン・ブラック』『ブレイド』を製作しフランチャイズ化したマーベルは『メン・イン・ブラック』の権利所有していたマリブ・コミックを買収した後、コロンビア映画と共に同作映画公開しコミック発売した同作2002年『スパイダーマン』公開されるまでの間、最高額興行収入記録を持つマーベル最初財産となった。『ブレイド』は主人公超能力を持つ一方で大量武器使用するなど、伝統的なアクション映画とダーク・スーパーヒーロー映画掛け合わせたものになった同作成功は、マーベル映画成功さらなるコミック・ムービーの活躍の場整え契機となった

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1970年代 - 1990年代

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パナソニックホールディングス」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説

1970年 - 世界初ダイレクトドライブターンテーブルSP-10発売日本万国博覧会松下館出展当時文化資料収め5000年後開封目指しタイムカプセル展示した1971年 - 「PANASONICロゴを、「Panasonic」へ変更国内向け製品では1973年まで「PANASONICロゴ使用)。 1973年 - 「NATIONALロゴを、「National」へ変更パナファコム株式会社(現:株式会社PFU)を設立韓国の亜南(アナムグループ合弁で「亜南・ナショナル(現:亜南電子)」を設立、「Anam Nationalロゴ使用しはじめる。アマチュア無線トランシーバRJX-601」、製造発売1975年 - 同社最高級アマチュア無線トランシーバ「RJX-1011」製造発売開始1977年2月 - 山下俊彦取締役社長に就任VHS方式ビデオテープレコーダマックロード)を発売蛍光灯パルック発売1982年2月1日 - 業界初のカラーオーダー冷蔵庫発売1986年2月 - 谷井昭雄専務社長に就任。 「パナソニック/Panasonic」ブランド国内でも単独使用開始。初使用した製品はMSX2パソコンFS-A1」。この頃から「松下電器」の独自制定書体も使われなくなり一般的なゴナ系の書体変更される1987年 - 富士通FM-ROEM仕様デスクトップPC「PanacomM500/700」を発売9月 - 中国初め合弁会社松下彩色顕象管有限公司(カラーブラウン管製造)を設立した10月 - 同社初の据置型DATデッキ「SV-D1000」を発売1988年10月 - テレビ・ビデオデッキ・CDラジカセ・ミニコンポなどのAV家電部門順次、「Nationalブランドから「Panasonicブランド移行する1989年 - 新しいスタイルのナショナルショップチェーン「パナック」を立ち上げ4月27日 - 創業者松下幸之助死去享年948月1日 - 本社技術部門の大規模な改革1990年 - MCA社(現・ユニバーサル・スタジオ)を子会社化1991年6月1日 - 窓口各部門散らばっていた社会事務室文化支援室として本社新設し窓口一本化する1992年8月 - AMステレオ放送対応第1号機となる携帯ラジオ「RF-U09」を発売10月 - 同社初にして日本初据置型DCCデッキ 「RS-DC10」を発売1993年2月 - 森下洋一専務社長に就任4月 -フィリップスとの合弁解消クロスライセンス契約cross-licensing agreement)に移行1994年 - ダイエー・松下戦争終結ダイエーグループ店舗への松下電器商品の販売供給再開する3月20日 - 3DO REALFZ-1発売12月 - パナソニック製AMステレオ対応受信機全体28機目の最終モデル「ST-GT70」発売本機最後に1995年以降AMステレオ対応受信機新規生産取りやめ。 1995年 - MCA社への出資80%をシーグラム社に売却4月 - 光ディスクPD開発1997年4月 - 社内分社制を導入関連する事業部を統合集約)。 5月 - 同社初のデジタルカメラ「COOLSHOT II」を発売、および「COOLSHOT」ブランドの展開1998年 - 韓国にて「Anam Nationalブランド廃止(「Anam」ロゴは「ANAM」へ変更)。

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1970年代 - 1990年代

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NHK紅白歌合戦」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説

1970年代になると新三人娘新御三家、花の高一トリオ代表されるアイドル台頭フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白歌われる曲の質は一変した公共放送であるNHK番組中で商品名使用規制しているが、かつてはその規制も特に厳しく紅白でも歌詞に関するトラブル起こった第24回1973年)にかぐや姫の『神田川』の歌詞出てくる「クレパス」(サクラクレパス商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果かぐや姫出場辞退した第29回1978年)でも山口百恵の『プレイバックPart2』の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に変えさせようとしたが、実際に原詞通り歌われた(ちなみに、別音楽番組レッツゴーヤング』『NHKヤング歌の祭典』では「真っ赤なクルマ」として歌った)。第55回2004年)にも松平健の『マツケンサンバII』で、松平を示す「マツケン」が規制の対象となった場合歌詞扱いについて作詞者吉峰暁子と協議している旨が一部メディアで報じられたが、実際に規制されなかった。 第71回2020年)では瑛人の『香水』において、歌詞登場するドルチェ&ガッバーナ」のフレーズについて広告面の問題歌詞そのまま使用できるかどうか質問報道陣より寄せられたが、NHK側は「そのまま問題ない」という見解示しており、当日原詞通りドルチェ&ガッバーナ」と歌われた。 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった第25回1974年)から9年白組司会務めた山川静夫交代となった理由のひとつは視聴率降下であるが、それでも最後担当回である第33回1982年)の視聴率は69.9%(関東地区ビデオリサーチ社調べ)だった。とりわけ都はるみ引退舞台となった第35回1984年)の視聴率は78.1%であり、1960年代匹敵する数字であった。ところが、以後視聴率大幅に落ち込むようになった第29回1978年)からステレオ放送開始第32回1981年からこれまでホール後ろから観客席通って入場行進していた出場歌手舞台後ろから入場行進をするようになったセット見直され大幅な舞台装置交換本番中にも可能となった。また応援合戦少なくなり、歌手席が初め終わり除いて設置されなくなった応援合戦内容従来対抗色が強いものから紅白歌手入り乱れて内容中心となった)。1980年代半ばごろから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初め終わりにも設置されなくなった第42回1991年)から入場行進優勝旗返還、(両組司会出場歌手の代表が行う)選手宣誓省略され、さらにそれまでステージ上やオーケストラピット演奏していたオーケストラ表舞台出演しなくなった第53回2002年)ではオーケストラ小規模ではあるが、久々に表舞台演奏したその後第63回2012年)で生演奏廃止バンドなどを除き事前に録音した伴奏用いたものに変更された。同回よりエンディングの演出華やか明るいものとなる。第31回1980年)までは、厳か徐々に照明暗くなっていく演出があった回もあった。 第31回1980年)から第35回1984年)の期間は「歌手による歌の祭典」という原点に立ち返るために原則応援ゲスト起用しなかった(まったく応援ゲスト登場しなかった回もある)。 第33回1982年)より、原則ほぼすべての歌唱曲歌詞テロップテレビ画面上に登場するようになった。また同回では通常出場歌手発表後決め曲目選定出場歌手選考中の同年9月21日ら行った。各レコード会社に「今年紅白出場させたい人たちのリスト作り歌唱希望曲を3つ書いて提出求めるという試み行った歌唱希望曲については、自身過去ヒット曲でも他人持ち歌でも構わない」とのものであった)。ヒット曲不足の1年振り返り曲目によっては出演危機歌手にもチャンス与えられるような印象業界広まり、また出場させたいリストレコード会社提出した時点出演意思判断ができるということにもなった。 第34回1983年)- それまでステージ上には紅組白組それぞれにバック演奏務めフルバンド東京放送管弦楽団配していたが、この年からなくなった第34回1983年) - 第36回1985年)まで金杯銀杯授与採用されていた。これは歌は当然のことながら、衣装などの演出面や番組中の活躍総合的に判断して授与するものであり、優勝チームから金杯受賞者が、敗退チームから銀杯受賞者選出されることとなった1980年代紅白それまでより話題集めにくくなっていた。この時期にもっとも注目されたもののひとつが小林幸子衣装であった小林衣装1980年代半ばから派手になり、第36回1985年)の『夫婦しぐれ』で十二単を、翌第37回1986年)の『別離』ではクレオパトラ衣装披露した第42回1991年)の『冬化粧』ではとなって飛んだ1990年代になると、小林美川憲一豪華衣装対決注目されるうになる2人直接対決となった回もある)。小林巨大な機械仕掛けなのに対し美川間奏などにプリンセス・テンコー監修イリュージョン対抗している。ちなみに小林美川紅白着用する豪華衣装高額な予算数億単位場合も)をかけて本番出場歌手発表のはるか前である時期から制作開始されるほか、2人着用衣装大みそか当日スポーツ新聞民放情報番組ワイドショー本番前ながら紹介されていた。またこの2人以外にも紅白豪華衣装披露する歌手登場することがあるテレビで実況第38回1987年)が最後となり、翌第39回1988年)からはラジオでの実況のみとなった第40回1989年)から紅白2部構成になった同年昭和天皇崩御し、「昭和振り返る」という意味もあったが視聴者音楽の好み多様化し多くの曲を揃えなければ需要応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試み功を奏し視聴率低落傾向に一応の歯止めかかった以後1990年代視聴率50%前後推移するうになる1989年以降紅白平均視聴率低下したことなどを理由に、紅白廃止検討されことがあるが、その都度廃止取りやめとなっている。詳細は「第40回NHK紅白歌合戦#幻の「紅白廃止」と「アジア音楽祭」」を参照 1990年代には小室哲哉作詞作曲した楽曲市場制覇したが、その影響紅白にも表れ多数歌手出場した第41回1990年)において、初めNHKホール以外から中継歌唱するという演出が行われた。番組内中継挿入する企画はこれより以前からあったが、「ステージ上からパフォーマンス届けることが紅白」との制作者側の共通認識から中継歌唱行われてこなかった。このときは長渕剛ベルリンから15分わたって3曲を歌った。しかし、中継先で歌う演出NHKホール観客やほかの紅白出場歌手達にも不評を買い、その後中継先で歌う演出12年後第53回2002年)まで行わなかった(一方中継演出復活してからはその演出定着している)。 また、前年採点対象第2部けだったが、同回からは第1部採点対象となったその影響で、同回から放送時間前半が『日本レコード大賞』とバッティングするようになり、歌手奪い合い掛け持ちによる大移動などの問題がさらに大きくなった。TBS紅白が『レコード大賞の裏番組となることに大慌てとなったという。TBS側はNHK苦言呈したほか、長時間紅白定着により毎回視聴率30%を誇っていた『レコード大賞』は視聴率低下させていくこととなり、ついに2006年から開催日12月30日繰り上げた(『レコード大賞』は紅白対策この年より「歌謡曲演歌部門」「ポップス・ロック部門」の2部門、すなわち2組グランプリ輩出させるように変更するなど、工夫を凝らすうになる)。 第42回1991年以降オープニング趣向凝らした大がかり構成・演出が行われるようになった開会宣言大物著名人が行うこともある。同回では、21時前のニュースによる中断まで第1部21時から2230分(森山良子アンディ・ウィリアムス対戦カードまで)までを第2部2230分から終了まで第3部とする計3部構成がとられた。ただし、第2部から第3部への移行時には中断挿入されなかったため、ビデオリサーチ社による視聴率調査では第2部第3部あわせて第2部”として取り扱われ、のちの紅白関連資料NHKによる公式資料を含む)もこのビデオリサーチ社による区割り則って今回出場歌手曲順紹介されている。 1990年代以降、オリジナルソング・テーマソングを制作し番組内出場歌手らによって大合唱されるという演出が行われることがある(このときは参加者楽譜持って歌唱となる場合もあり)。これらの曲がのちにCD発売される、『みんなのうた』放送されるNHK全国学校音楽コンクール課題曲起用されということもある。また翌年紅白出場歌手歌唱曲として歌唱されるケースもある。 1990年代以降ディズニー人気アニメとのコラボレーション演出が行われることが多々ある第45回1994年) - 第48回1997年)までその年のNHK新人歌謡コンテスト優勝者紅白出場与えられた(1998年NHK新人歌謡コンテスト廃止)。 紅白におけるNHKロゴマーク第46回1995年)から更新された。 1990年代後半中心にヴィジュアル系バンドブーム起こりX JAPANLUNA SEAGLAYL'Arc〜en〜Cielらが出場した第50回1999年)については、番組終了後後座番組ゆく年くる年放送中23時58分(30秒)ごろより画面紅白終了直後NHKホール内の映像切り替わり紅白出演者および観客による2000年向けてのミレニアムカウントダウンの模様放送された。その後、同回のオリジナルソングとして制作された『21世紀の君たちへ〜A song for children〜』の出演者による大合唱行われた通常総合テレビ年越しの瞬間は『ゆく年くる年』内でシンプルに進行しており、さまざまな形式大勢賑やかに迎えることが通例)で新年カウントダウンが行われる民放テレビ各局の年越し番組とは確実な差異があるが、この際例外であったまた、BS2アナログハイビジョンに於いては23時45分以降も「カウントダウンスペシャル」の名で継続放送され翌年1月1日午前0時5分まで放送された。 詳細は、以下を参照1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年

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1970年代 - 1990年代

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リコー」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説

1970年3月15日 - 日本万国博覧会に「よりよき人類の眼」をテーマとしたリコー館を出展1971年4月 - オフィスコンピュータ1号機「リコム8」発売情報機器事業進出5月 - 事務機器情報機器主力工場として厚木事業所設立1972年3月 - 乾式普通紙複写機 (PPC)「リコーPPC900」発売1973年4月 - 世界初電話回線網に直接接続する高速デジタルファクシミリ1号機「リファクス600S」、製品発表会東京 - ニューヨーク間の衛星回線経由ファクス送受信成功1975年2月 - 乾PPC「ニューリコピーDT1200」発売普及機では初の2種類用紙ワンタッチ切替機構搭載しベストセラーとなる。 1977年3月 - 東京都港区青山にリコービルを竣工本社事務所として業務開始1980年 - 「リファクス600S」に搭載され通信技術ベースとした通信プロトコルが、CCITT(現:ITU-T)に採択され、T.30規格として正式勧告される。これにより規格準拠していればメーカー機種問わず通信可能となり、ファクシミリ普及寄与した1982年6月 - 拡大・縮小機能付きA3判PPCリコピーFT4060」発売ヒット商品となる。 1985年2月 - アナログカラー複写機1号機「リコーカラー5000発売3月 - 「普通紙複写機の多品種生産システム開発」で大河内記念生産賞を受賞1986年4月 - 創立50周年事業としてコーポレートロゴ変更し横浜市港北ニュータウンリコー中央研究所設立1987年1月 - 一般オフィス向けデジタル複写機「IMAGIO 320発売小型化低価格によりヒット商品となる。 1990年10月 - デジタルカラー複写機1号機「ARTAGE 8000発売当時世界最速カラー出力実現1992年3月 - 世界初の透明ボディフィルムカメラ「リコーFF-9sD LIMITED」を2000限定発売発売日完売となる。デザイン好評だった1990年3月発売の「リコーFF-9sD」のボディを透明プラスチックしたもの1994年9月 - 超薄型コンパクトフィルムカメラ「リコーR1」発売パトローネ部分以外を厚さ25mmとすることで世界一薄いボディ実現した翌年5月にはカメラ記者クラブ特別賞受賞したほか、国内外5つの賞を受賞1995年5月 - コンパクトデジタルカメラ1号機リコーDC-1発売記録媒体PCカード採用1996年8月 - デジタル複写機「imagio MF200」発売当時のA3コピー機世界最小幅の小型化低価格中小企業ヒットしリコー複写機国内出荷台数デジタルアナログ上回るうになる11月 - CD-RWディスク生産開始1997年4月 - 世界初CD-R/RWドライブリコーMP6200シリーズ発売

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1970年代 - 1990年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 09:46 UTC 版)

ジルベルト・ジル」の記事における「1970年代 - 1990年代」の解説

1970年ワイト島音楽祭出演亡命先ロンドン制作したアルバムGilberto Gil (Nega)』(1971年)では、英語詞楽曲披露されブラインド・フェイスカヴァーCan't Find My Way Home」等を収録この頃ジルベルトレゲエ傾倒していく。 1972年1月ブラジル帰国同年発表アルバム『Expresso 2222』からは、「Back in Bahia」や「Oriente」がシングル・ヒット1975年アルバムGil e Jorge』には、ジョルジ・ベンと共に行ったジャム・セッション収録された。 1979年アルバムRealce』には、ボブ・マーリー歌唱知られるノー・ウーマン、ノー・クライ」をポルトガル語カヴァーした「Não Chore Mais収録。同曲はシングルとして大ヒットした。1980年ジミー・クリフと共にブラジル・ツアーを行う。1981年には、カエターノ・ヴェローゾマリア・ベターニアと共にジョアン・ジルベルトアルバムBrasil』(邦題:海の奇蹟)にゲスト参加1986年、初の日本公演を行う。東京公演模様は、後にライヴ・アルバムAo Vivo Em Tóquio (Live in Tokyo)』として発表された。1988年から1992年にかけて、サルヴァドール市議会議員務める。 トゥーツ・シールマンス1992年から1993年発表した『The Brasil Project』『The Brasil Project, Vol.2』に、ゲスト・ミュージシャン一人としてジルベルト参加1990年代におけるトロピカリア再評価を受け、ジルベルトカエターノ・ヴェローゾはコラボレーション・アルバム『Tropicália 2』(1993年発表両者新曲の他、ジミ・ヘンドリックスカヴァーWait Until Tomorrow」等を収録2人は、1994年6月から7月にかけて、アメリカヨーロッパでコンサート・ツアー行ったジルベルト早い段階からインターネット注目していた。1996年4月には公式サイト開設同年12月14日には、自身ライヴインターネット同時中継するという、ブラジルミュージシャンとしては初の試み行った1998年発表ライヴ・アルバムQuanta Gente Veio Ver: Ao Vivo』は、グラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム部門受賞ジルベルトにとって初のグラミー受賞作となった1999年美術家のベネー・フォンテレスの監修により、ジルベルトモチーフとしたアート・ブック『GiLuminoso: A po.ética do Ser』が出版された。同書付録CDは、ジルベルト自作曲セルフ・カヴァーギター弾き語りだけで録音した内容で、2006年には『Gil Luminoso』という単体アルバムとして発売される

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