中断まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:05 UTC 版)
「ピアノ五重奏曲第1番 (フォーレ)」の記事における「中断まで」の解説
ピアノ五重奏曲第1番の作曲期間は、およそ1890年から1894年にかけての5年間と1903年から1905年にかけての3年間に分かれており、二つの期間の間には長い中断が挟まれている。 ピアノ四重奏曲第2番の初演後まもない1887年9月、友人のマルグリート・ボニーに宛てたフォーレの手紙によれば、フォーレはピアノと弦楽器のための新たな作品を構想し始めた。1887年夏のスケッチ帳の中に、この作品の第3楽章で用いられることになる主題がヘ長調で記されている。 当初はピアノ四重奏曲としてスケッチされたこの曲は、やがて第2ヴァイオリンをつけ加えたピアノ五重奏曲に編成が拡大された。これについて、日本の音楽学者丸山亮は、フォーレが筆を進めていくうちに、楽想が四重奏には収まりきらない五重奏の形をとってくるのに気づいたとする。一方、フランスのフォーレ研究家ジャン=ミシェル・ネクトゥーは、ベルギーのヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)との親交が関係しているとする。イザイは自身のソロ活動とともに弦楽四重奏団(en:Ysaÿe Quartet (1886))を率いており、1888年及び1889年にブリュッセルでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番と2曲のピアノ四重奏曲をフォーレと共演していた。 五重奏曲の草稿は1890年の終わりごろにはかなり書き進められており、フォーレの次男フィリップによれば、アレグロとアンダンテの楽章がほぼ同時期に書かれていたという。 このころイザイは彼の弦楽四重奏団のメンバーとともにパリのフォーレ宅を訪れ、書き上げられた部分を試演した。このときの様子をフィリップは次のように述べている。 「アレグロの提示部は書き改められた。なぜならピアノのアルペジオに軽快さを欠いていたからだ。イザイが彼の四重奏団のメンバーとともにパリを訪れ、マルゼルブ大通りのサロンで書き上げられた部分を試演した。このときイザイは感激を表した。そして『五重奏曲』は彼に捧げられることが約束された。しかし、ガブリエル・フォーレは満足していなかった。気にかかっていた展開部がやはりよくなかったからだ。」 — フィリップ・フォーレ=フレミエ 五重奏曲の作曲は一時中断され、フォーレは1891年5月から初めてヴェネツィアに滞在する。現地で後のポリニャック公爵夫人ウィナレッタ・シンガー(1865年 - 1943年)に迎えられたフォーレは、同年9月にポール・ヴェルレーヌの詩に基づく『5つのヴェネツィアの歌』(作品58)を完成する。また、エンマ・バルダックとの交際から、1892年から1894年にかけて連作歌曲『優しい歌』(作品61)を作曲し、このことでフォーレ夫妻の間には気まずい雰囲気が流れ始めた。 1894年6月、フォーレはポリニャック公爵夫人に宛てた手紙に「(五重奏曲が)完成するまでは決してこの曲から離れない」という固い決意で臨み、出版社のアメル社は1896年の春にこの曲が作品番号60として目下印刷中であると公表した。この間、1894年の7月には夜想曲第6番、同年9月には舟歌第5番と、フォーレの「第二期」を代表するピアノ曲が完成されている。しかし、ピアノ五重奏曲の筆は進まず、フォーレはまたしても作曲を中断、長らく放置されることになった。
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