中断の事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 01:27 UTC 版)
「ジークフリート (楽劇)」の記事における「中断の事情」の解説
『ジークフリート』の中断期間は1857年6月から1869年3月までの12年とされるが、上記のように手を付けている期間もあり、実質的には約10年である。中断の理由として、以下の点が挙げられる。 ワーグナーは1849年のドレスデン5月蜂起に荷担してチューリヒに亡命しており、『ローエングリン』はリストの尽力によって1850年に初演されたものの、その後は新作を発表できず、このままでは音楽界からも忘れ去られるのではないかという危機感があった。 「指環」四部作の構想拡大によって、全曲完成の見通しが立たず、また仮に完成したとしても上演・出版のあてもないこと。 『ヴェーゼンドンク歌曲集』作曲の契機ともなったマティルデ・ヴェーゼンドンクとの親密な交際や最初の妻ミンナとの離婚(1862年)など、生活環境の変化に伴って創作意欲に刺激を受けたこと。 こうしたもとでワーグナーとしては、さしあたり『トリスタンとイゾルデ』を「実用向き」な作品として世に送り出したい意向があった。しかし、『トリスタンとイゾルデ』はワーグナーひとりの転機にとどまらない、音楽史上でも画期的な「事件」となった。ひきつづいて「軽い喜劇」の予定で取り組んだ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』もまた構想が膨らみ、ワーグナーの作品中でも最大規模の大作となるなど、この時期のワーグナーの充実ぶりは顕著である。 1864年5月からはバイエルン国王ルートヴィヒ2世の援助により、安定した生活のもとで創作に打ち込めるようになった。ルートヴィヒ2世から「指環」四部作の完成・上演を大いに期待されたことで、『ジークフリート』完成への条件がそろってきたものと見られる。
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