中断から完成へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 19:18 UTC 版)
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の記事における「中断から完成へ」の解説
1863年秋から1866年1月まで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲は中断された。この間、1864年5月にバイエルン王ルートヴィヒ2世と宿命的な出会いをしたワーグナーは、破産寸前のところを王に救われ、以降は王の求めに応じて『ニーベルングの指環』や『パルジファル』の創作、『トリスタンとイゾルデ』の初演などに追われていた。 しかし、フランツ・リストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマとワーグナーの不倫関係が進行し、翌1865年にはルートヴィヒ2世からミュンヘン退去を命じられた。この結果、ルツェルン近郊のトリープシェンに移ってコジマとの同棲生活を始めたことで、再び『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に取り組む環境が整った。 ワーグナーが本作の作曲を再開したのは1866年1月12日であり、翌1867年2月17日、コジマとの間に生まれた第2子をエファと名付けたワーグナーは、ピアノで「マイスターの歌」を弾いて祝福した。なお、この時点でコジマはビューローの妻であり、ワーグナーとコジマが正式に再婚したのは1870年8月25日である。 ルートヴィヒ2世は、周囲に迫られて一度はワーグナーを追放したものの、1866年5月22日、ワーグナーの誕生日に「お忍び」でトリープシェンに現れ、ワーグナーの家の戸口で本作の騎士の名「ヴァルター・フォン・シュトルツィング」と名乗って和解を申し出ている。同年7月には、ワーグナーへの傾倒のあまりニュルンベルクへの遷都を決意するほどであった。 コジマはワーグナーの制作過程に深く関わった。1867年1月31日付でルートヴィヒ2世に宛てたコジマの手紙によれば、ワーグナーは第3幕第5場の「ザックスの最終演説」を取りやめ、ヴァルターの詩で締めくくることを考えていたが、コジマはワーグナーと丸一日議論してこれを翻意させたと報告している。また、1867年2月7日に完成した作曲スケッチの末尾には、「聖リヒャルトの日に/とくにコジマのために/作成」と記入されている。作曲中断前の本作がワーグナーの二人のマティルデへの想いをにじませているとすれば、再開後はコジマの影を色濃く映し出しているといえる。 1867年10月24日に「手書きスコア」(H)が完成。ワーグナーはクリスマスにミュンヘンに出向き、ルートヴィヒ2世にスコアを献呈した。このスコアは現在、ニュルンベルク市ゲルマン民族博物館に所蔵されている。
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