ルートヴィヒ2世
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ルートヴィヒ2世(Ludwig II.)は、ドイツ語圏の君主の名。
- ルートヴィヒ2世 (東フランク王) - 東フランク王国(カロリング朝)の国王。(在位843年 - 876年)。「ドイツ人王」と呼ばれる。
- ルイ2世 (西フランク王) - 西フランク王国の国王。ドイツ語名ルートヴィヒ。
- ロドヴィコ2世 - ロタール1世の長男。イタリア王(在位839年 - )でローマ皇帝(在位855年 - 875年)。ドイツ語名ルートヴィヒ。
- ルートヴィヒ2世 (バイエルン公) - 上バイエルン公・ライン宮中伯(在位1253年 - 1294年)
- ルートヴィヒ2世 (バーデン大公) - バーデン大公国の第5代大公(在位1852年 - 1856年)
- ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公) - ヘッセン大公国の第2代大公(在位1830年 - 1848年)
- ルートヴィヒ2世 (バイエルン王) - バイエルン王国の国王(在位1864年 - 1886年)。「狂王ルートヴィヒ」と呼ばれる。
- 『ルートヴィヒ2世 - ある王の栄光と没落』 - 上記の国王を描いた映画。
- 『〜夢と孤独の果てに〜 ルートヴィヒII世』 - 上記の国王を描いた宝塚歌劇。
- ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)
ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)
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「東フランク王国」の記事における「ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)」の解説
カール大帝の子である第二代西ローマ皇帝(フランク王)ルートヴィヒ1世敬虔帝が840年6月20日に死ぬと、三人の息子が領土を巡って争った。843年8月にヴェルダン条約が結ばれ、敬虔帝の息子の一人ルートヴィヒ2世がフランク王国東部を継承して東フランク王国が成立した。国土の分割は大まかにマース川、スヘルデ川、ソーヌ川、ローヌ川に沿って行われた。長兄ロタール1世は第三代ローマ皇帝の称号とイタリアを含む中部フランクを、四男のシャルル2世(カール2世)禿頭王は西フランクを、そして三男のルートヴィヒ2世ドイツ人王は東部のおおよそドイツ語圏にあたるフランケン(アウストラシア)、ザクセン、アレマニア(シュバーベン)、バイエルン、ケルンテン、テューリンゲンといった地域を手に入れた(次男のピピンは840年以前に死去)。東フランクの年代記Annales Fuldensesによるとフランク王国は「3つに分けられ」ルートヴィヒは「東部を受け取った」とある。西フランクの年代記Annales Bertinianiがルートヴィヒ領の範囲について述べるところでは「分割の割当においてルートヴィヒはライン川より東側の全域を手に入れ、ライン西岸でもシュパイヤー、ヴォルムス、マインツといった都市とその近郊を手に入れた」とある。 中部フランクの皇帝領と西フランク王国は伝統的なフランク王国中心部を含んでいたが、東フランク王国の大半は8世紀になってフランク王国に併合された地域であった。古来よりのフランク王国に由来するのは中央部のフランケンのみであり、それもアウストラシアと呼ばれたフランク族領東部のさらに東半分に過ぎない。その他の大部分はザクセン、アレマニア、バイエルン、テューリンゲン、フリーゼンといった部族領やデーン人、スラブ人に対する北部、東部の辺境伯領から成り立っていた。年代記Regino of Prumによるとゲルマン系、スラブ系の言葉を話す東フランクの「異民族」たちは「血筋、習慣、言語、法によって区別」できると記している。 第三代ローマ皇帝ロタール1世の死後、その領土は三人の息子によってさらに分割された。ロタール1世の次男ロタール2世は東西フランク間に挟まっていた地域を継承してロタリンギア王国を建国したが、嫡子を残さず死去した。そこで東西フランク間でロタリンギアを分割して国境を定めるメルセン条約が結ばれた。東フランクはメッツやアーヘンを含むロタリンギア東部を獲得した。ロタール1世の長男であるイタリアの第四代ローマ皇帝ロドヴィコ2世はこの分割に抵抗するだけの実力を持たなかった。ロタリンギアは現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスのロレーヌ地方、スイス西部にあたり第二次世界大戦に至るまでフランス・ドイツ間の戦争の舞台となった。
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