ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)とは? わかりやすく解説

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ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/27 13:14 UTC 版)

ルートヴィヒ2世
Ludwig II.
上バイエルン公
ライン宮中伯
在位 1253年 - 1294年

出生 (1229-04-13) 1229年4月13日
神聖ローマ帝国
ライン宮中伯領、ハイデルベルク
死去 (1294-02-02) 1294年2月2日(64歳没)
神聖ローマ帝国
ライン宮中伯領、ハイデルベルク
埋葬 神聖ローマ帝国
バイエルン公領フュルステンフェルト修道院英語版
配偶者 マリア・フォン・ブラバント
  アンナ・フォン・グロガウ
  マティルデ・フォン・ハプスブルク
子女 マリア
ルートヴィヒ
ルドルフ1世
メヒティルド
アグネス
アンナ
ルートヴィヒ4世
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 バイエルン公ライン宮中伯オットー2世
母親 アグネス・フォン・ブラウンシュヴァイク
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ルートヴィヒ2世(Ludwig II., 1229年4月13日 - 1294年2月2日)は、上バイエルン公ライン宮中伯厳格公der Strenge)の渾名を持つ[1]下バイエルン公ハインリヒ13世の兄。後に神聖ローマ皇帝となるルートヴィヒ4世の父。

生涯

バイエルン公ライン宮中伯オットー2世と妻アグネス(ライン宮中伯ハインリヒ5世の娘)の息子として、ハイデルベルクで生まれた[1]ホーエンシュタウフェン朝に従い、1246年にローマ王コンラート4世を助けてテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペと戦った[1]。1247年にコンラート・フォン・ヴァッサーブルクロシア語版と戦って撃破し、1250年にはオーストリアにおける帝国摂政英語版に任命された父オットー2世に対し臣従を拒否したミニステリアーレとも戦った[1]。このとき、エンス川流域とリンツ周辺の城塞をいくつか包囲したが、最終的には金銭をもって一時的に臣従させた[1]。またレーゲンスブルク司教英語版アルブレヒト1世・フォン・ピーテンガウ英語版との戦争では1251年にタイスバッハ英語版城を夜襲して落とした[1]

1253年11月29日に父が急死すると、弟ハインリヒ13世とともに父の遺領を相続した[1]。レーゲンスブルク司教聖務禁止令英語版を下したこともあり、即位にあたっての急務は司教との講和で、遺領相続と同月のうちに達成した[1]ザルツブルク大司教フィリップ・フォン・シュパンハイム英語版との講和もすぐに成立した[1]。しかし、ルートヴィヒ2世はハインリヒ13世と仲違いしてしまい、1255年の復活祭頃に領土を分割、下バイエルンは弟ハインリヒ13世が、ライン宮中伯および上バイエルンはルートヴィヒ2世が領有した[1]。『ドイツ人名事典英語版』はこの分割を帝国法に違反するうえ、ヴィッテルスバッハ家およびバイエルン公領を修復できないほどに弱体化させたと評した[1]。上バイエルン公となったルートヴィヒ2世は1256年10月までにライン都市同盟に加盟した[1]

この時期、神聖ローマ帝国ではコンラート4世が死去して大空位時代に入っており、ルートヴィヒ2世はホーエンシュタウフェン朝の継承者で姉エリーザベトの息子にあたるコンラディンの後見人になり、コンラディンをバイエルンの宮廷で育てた[1]。ルートヴィヒ2世はコンラディンのシチリア王国シュヴァーベン公国に対する権利を主張し、教皇アレクサンデル4世との交渉を続けたが失敗した[1]。その後、ローマ王ヴィルヘルム・フォン・ホラントが死去すると、ルートヴィヒ2世ははじめ1257年ローマ王選挙英語版でコンラディンを支持しようとしたが、コンラディンが当選しそうもないことがわかると、1256年11月にコーンウォール伯リチャードの代表エノー伯ジャン1世バッハラッハの近くのフュルステンベルク城英語版に迎え入れた[1]。そして、ルートヴィヒ2世は説得を受けて、コーンウォール伯を支持し、コーンウォール伯の娘またはと結婚することに同意し、その代償としてコーンウォール伯はローマ王に選出された場合、ルートヴィヒ2世に12,000マルクを支払い、コンラディンのシチリア王位主張に反対せず、シュヴァーベン公国に対する権利を保護するものとした[1]。こうして、ルートヴィヒ2世の支持を得たコーンウォール伯はローマ王に選出された[1]

一方、ヴィッテルスバッハ家の弱体化を見たボヘミア王オタカル2世は1257年にバイエルンに遠征したが、ルートヴィヒ2世はライン宮中伯領から駆けつけ、ハインリヒ13世と協力してボヘミア軍を撃退した[1]。オタカル2世は撤退したが、ミュールドルフ・アム・イン英語版の近くでイン川を渡るときに橋が崩れたため多くの損害を出した[1]。また、『ドイツ人名事典』はルートヴィヒ2世がミュールドルフの近くで敵軍が塔に逃げ込んだところを見ると、塔に火を放ったという出来事から、ルートヴィヒ2世が短期で残虐な性格であり、後世の歴史家がつけた「厳格公」(der Strenge)の渾名が不適切であると評した[1]

オタカル2世を撃退した後、ハインリヒ13世はルートヴィヒ2世にライン宮中伯位を譲ったことを悔い、2人の間で不和が生じた[1]。1262年1月の仲裁裁判でハインリヒ13世の領土主張が退けられたものの、2人は以降も不仲のままとなった[1]

コンラディンがイタリアで敗死するとルドルフ1世に与してオタカル2世に対抗、オタカル2世はルドルフ1世に討ち取られた。1289年選帝侯が7人に決められ、バイエルン公はボヘミア王に選挙権を譲ることに決まったものの、ライン宮中伯のルートヴィヒ2世も選ばれた(金印勅書で法的に決められるのは1356年)。ルドルフ1世の死後、アルブレヒト1世を支持したが、他の諸侯はアドルフを選んだため、実現しなかった。

1294年ハイデルベルクで死去した。ライン宮中伯は長男のルドルフ1世が単独で相続、バイエルンはルドルフ1世と次男のルートヴィヒ4世が共同で統治した。

結婚と家族

ブラバント公アンリ2世の娘マリーと結婚したが、1256年1月18日にドナウヴェルトで姦通罪により斬首した[1]カトリック教会はマリーを殺した罪の償いとして、ルートヴィヒ2世にミュンヘン近郊でフュルステンフェルト修道院英語版を建設させた[1]。『ドイツ人名事典英語版』は教会から課された償いと、2人目の妻との間の娘に1人目の妻の名前であるマリア(ドイツ語名)がつけられたことから、ルートヴィヒ2世が後年になってマリーの無実を信じたと主張した[1]

1260年グウォグフ公コンラト1世の娘アンナと再婚[2]、2人の子を儲けた。

  1. マリア(1261年 - ?)
  2. ルートヴィヒ(1263年 - 1290年)

1273年10月24日ローマ王ルドルフ1世の娘マティルデと再婚[3]。4人の子を生んだ。

  1. ルドルフ1世(1274年 - 1319年)[4] - 上バイエルン公、ライン宮中伯。
  2. メヒティルト(1275年 - 1319年) - 1288年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー2世と結婚した。
  3. アグネス(1277年 - 1345年) - 1290年にヘッセン方伯ハインリヒ1世の子ハインリヒ(1264/5年 - 1298年)と結婚、後にブランデンブルク辺境伯ハインリヒ1世と再婚。ハインリヒ2世の母。
  4. アンナ(1280年生) - ウルム修道院の修道女
  5. ルートヴィヒ4世(1282年 - 1347年) - 神聖ローマ皇帝、上バイエルン公、下バイエルン公、イタリア王[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Sigmund Ritter von Riezler (1884). “Ludwig II., Herzog von Baiern und Pfalzgraf bei Rhein”. Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 19. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 497–502.
  2. ^ Jeffery 2018, p. ii.
  3. ^ Earenfight 2013, p. 173.
  4. ^ a b Thomas 2010, p. 387.

参考文献

  • Earenfight, Theresa (2013). Queenship in Medieval Europe (英語). Palgrave Macmillan.
  • Jeffery, Renée (2018). Princess Elisabeth of Bohemia: The Philosopher Princess (英語). Lexington Books.
  • Thomas, Andrew L. (2010). A House Divided: Wittelsbach Confessional Court Cultures in the Holy Roman Empire, c.1550-1650 (英語). Brill.
ドイツの爵位
先代
オットー2世
上バイエルン公
1253年 - 1294年
次代
ルドルフ1世
ルートヴィヒ4世
先代
オットー2世
ライン宮中伯
1253年 - 1294年
次代
ルドルフ1世



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