ヘッセン方伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/19 17:49 UTC 版)
- ヘッセン方伯領
- Landgrafschaft Hessen
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← 1264年 - 1567年 →
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(国旗) (国章) -
1400年におけるヘッセン方伯領(水色) -
首都 カッセル、マールブルク - ヘッセン方伯
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1264年 - 1308年 ハインリヒ1世 1509年 - 1567年 フィリップ1世 - 変遷
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テューリンゲン方伯領より分立 1264年 2つに分裂 1458年 - 1500年 4つに分裂 1567年
ヘッセン方伯(ヘッセンほうはく、独:Landgraf von Hessen)は、神聖ローマ帝国の方伯。その所領(ヘッセン方伯領、独:Landgrafschaft Hessen)がフィリップ1世の息子達により分割されるまでの期間、1264年から1567年まで存在した。
歴史
中世初期にヘッセンはテューリンゲン方伯領の一部であったが、テューリンゲン継承戦争の後、ブラバント公アンリ2世と妃ゾフィー・フォン・テューリンゲンの息子ハインリヒ1世(Heinrich I.)に相続された。ハインリヒ1世は1246年に最初のヘッセン方伯となった。
1458年から1500年まで方伯領は上ヘッセンと下ヘッセンに分裂していたが、1509年にヴィルヘルム2世の代で統合された。
フィリップ1世の統治下においてヘッセンの重要性は最も高まった。フィリップ1世は寛大伯とも呼ばれ、1524年にプロテスタントを受け入れ、以降プロテスタント諸侯による保護同盟を創設する処置をとった。
1567年のフィリップ1世の死後、方伯領は最初の結婚で生まれた息子達に分割相続された。
- ヘッセン=カッセル方伯(後のヘッセン選帝侯、1567年 - 1806年/1813年 - 1866年、プロイセン王国に併合された):ヴィルヘルム4世
- ヘッセン=マールブルク方伯(Hessen-Marburg)(1567年 - 1650年、ヘッセン=カッセルとヘッセン=ダルムシュタットに併合された):ルートヴィヒ4世
- ヘッセン=ラインフェルス方伯(Hessen-Rheinfels)(1567年 - 1583年、ヘッセン=カッセルに併合された):フィリップ2世
- ヘッセン=ダルムシュタット方伯(1567年 - 1806年、後のヘッセン大公国。1806年 - 1918年、ヴァイマル共和国に併合された):ゲオルク1世
関連項目
ヘッセン方伯(1247年 - 1567年)
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「ヘッセンの統治者一覧」の記事における「ヘッセン方伯(1247年 - 1567年)」の解説
名前開始終了付記ハインリヒ1世 1247年 1308年 「ブラバントの子(Kind von Brabant)」と呼ばれた。 オットー1世 1308年 1328年 ハインリヒ1世の上の息子。子供伯(das Kind)と呼ばれた。1308年から1311年まではオーバーヘッセン(マールブルク)のみを統治し、1311年にヘッセンを統合した。 ヨハン 1308年 1311年 ハインリヒ1世の下の息子。ニーダーヘッセン(カッセル)のみを統治した。 ハインリヒ2世 1328年 1376年 オットー1世の息子。鉄伯(Der Eiserne)と呼ばれた。 ヘルマン2世 1376年 1413年 ハインリヒ2世の甥。碩学伯(der Gelehrte)と呼ばれた。 ルートヴィヒ1世 1413年 1458年 ヘルマン2世の息子。平和伯(der Friedfertige)と呼ばれた。 1458年から1500年まで、ヘッセンはオーバーヘッセンとニーダーヘッセンに分裂した。
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