ナッサウ=ディレンブルク、カッツェンエルンボーゲン、エプシュタイン家、ヘッセン方伯(1388年 - 1479年)
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「バート・カムベルク」の記事における「ナッサウ=ディレンブルク、カッツェンエルンボーゲン、エプシュタイン家、ヘッセン方伯(1388年 - 1479年)」の解説
ディーツ伯家が1388年に断絶したため、ナッサウ=ディレンブルク伯アドルフ(ドイツ語版、英語版)がこの街を相続した。1403年からこの街はカッツェンエルンボーゲン伯(ドイツ語版、英語版)に質入れされた。この頃カムベルクは、カッツェンエルンボーゲンとフェーデを戦っていたフランクフルト・アム・マインに占領されたが、その直後に再び奪還された。1420年にアドルフ・フォン・ナッサウが死亡すると、ナッサウ=ディレンブルク伯(ドイツ語版)と、街の3/4を所有していたエプシュタイン家との共同統治となった。1452年から1454年にカッツェンエルンボーゲン伯は、エプシュタイン家が所有する街の 1/4 とディレンブルク家が所有する 1/8 を購入した。全ての所有者が、その一部を短期間であるが何度も他の貴族やトリーア選帝侯に質入れした。カッツェンエルンボーゲン家が1479年に断絶した後、カッツェンエルンボーゲン家がかつて所有していたこの街の 1/4 をヘッセン方伯が要求した。 カムベルク、ヴュルゲス、エアバッハの森は、1421年にマルク共同体(ドイツ語版)に属した。そこでは、当初はディーツ伯、後にナッサウ家が勢力を誇った。 カムベルクの中央教会は、中世盛期に聖ペトロに献堂された。カムベルクの教会区のパトロンはリムブルクのゲオルク教会であった。最初に名前が明記されている聖職者は1156年のゲルノートであった。カムベルクの教会管区は現在の市区および、やがて廃村となったヴュルテス近郊のアルスドルフやヴァルスドルフを包含していた。この教区は1235年まではマインツ大司教区(ドイツ語版、英語版)に、その後トリーア大司教区(ドイツ語版、英語版)に属しており、後には主権も一部保持していた。
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