小教区
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ナビゲーションに移動 検索に移動小教区(しょうきょうく、英語: parish、パリッシュ)は、監督制をとるキリスト教の諸教会において、教会行政の基本単位となる区域。一般に「教区」(または司教区)と訳される"diocese"の下位の単位。"parish"が「教区」と訳される場合もあるが 、一般的に"diocese"との区別のために、「小教区」、あるいは「教会区」などと訳される。
歴史
初期のキリスト教会では、各都市に司教を長とする教会があり、教区(司教区)があるだけであった。しかし3世紀ごろから都市以外にもキリスト教徒が増え、教会が建てられるようになると、さまざまな問題が生じてきたため、司教の配下にあってそうした教会を司る司祭が置かれるようになってきたのが小教区制の起こりである。
またゲルマン民族においては、キリスト教以前の風習を引き継いで領主の私有教会が置かれることが多くあり、ここでも独自の小教区制が成立していった。
中世に入って、特にカロリング朝時代にフランク王国が拡大した際、この2つが合体し、現代まで続く国全体に及ぶような小教区制が成立したとされる。[1]
カトリック教会の小教区
カトリック教会においては、各々の教区(司教区)の中にいくつかの小教区が設置され、それぞれの小教区が「主任教会」と呼ばれる中心となる教会を持つ。小教区には「主任司祭」(英語: parish priest、ラテン語: parochus)がいて、小教区に対する責任と権威を持つ。主任司祭は、司教直属の教区司祭が任命されることが多いが、司教から小教区の管理を委託された修道会の修道司祭が主任司祭を務める場合もある。また、主任司祭を補助する司祭がいることもあり、「助任司祭」と呼ばれる。
聖公会の小教区
イングランド国教会では、上述のカトリック教会のシステムの多くが、改革ののちも引き継がれ、教区教会が基本的な単位と見なされている。
しかし、イングランド国教会を母体として世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)の諸教会においては、小教区の制度を設けていない管区・教区もある。日本聖公会においては小教区の制度は存在しない。
スコットランド国教会の小教区
スコットランド国教会において、教区は教会の管理の基本レベルである。各々の教区教会の霊的な監督に責任をもつのは、会衆の最下級長老会議(Kirk Session)である。
脚注
- ^ 阪口 2006。
参考文献
- 坂口昂吉「小教区制の起源(研究余滴)」『史学』(慶應義塾大学) 75巻1号(2006-06)、141-143頁。CiNii
- 山代宏道「アングロ・サクソン時代の小教区制 <研究ノート>」『史學研究』(広島史学研究会)153(1981-09-30)、44-58頁。CiNii
関連項目
教会区
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ヴェルヴァーの教会をいつ、誰が建設したかは、文献に記録がない。しかし1240年から1245年の古い修道院の文書にはヴェルヴァー教会区を含めその記述があるので、それ以前に建設されていたことが判る。建築様式や建設時の習慣からヴェルヴァー領主家が12世紀に私的な教会として建設したものと推測される。ゾーストの代官がヴェルヴァー家の後継者として引き継いだ教会の守護権がこれを示唆している。修道院時代にこの教会は必要に応じて増改築がなされた。 古いヴェルヴァーの教区連合は、レックリングゼン、クロティンゲン、フレルケ、マイエリヒ、ヴェーヴァーの 5つの集落を包含していた。歴史家は、この地域が元々ディンカー教会区に属していたという説を採用している。現在も毎年開催されベルデ主任司祭区の代表が招かれるゾーストのウルリヒパレードに、ディンカーの使者が、自治体「ブーテンリューデ」の代表に同行している事実に注目すべきである。隣接するヴェルヴァー司祭区はディンカーの後につきそっており、ディンカーの支部教会と認識されていた。 ヴェルヴァーの教会成立年代を推定するヒントは二人の守護聖人にある。古い教会は殉教者「イングランドのアルバン(ドイツ語版、英語版)」と「キリアクス(ドイツ語版、英語版)」に献ぜられた。キリアクス崇拝は、ゲロ辺境伯がこの聖人の聖遺物をローマからアッシャースレーベン(ドイツ語版、英語版)近郊のフローゼ修道院に移送したのちに興った。ヴァルヴァーの教会の主聖人である聖アルバヌスはさらに遡る。彼はキリスト教のドイツでの布教時代に持ち込まれた聖人で、イギリスで特に崇拝されていた。 何世紀にもわたって続けられている「聖霊降臨祭の月曜日の大パレード」はもともと「アルバヌス詣」であり、ディンカー、フルトロプ、リップボルクやヘーフェシュタットまでのリッペ川流域の村、リースボルン、ヴァーダースローはもちろん、ゾースト、シャイディンゲン、ヴェルルを含む周辺地域から巡礼が行われていた。19世紀初頭でも、教師ホンカンプの報告によれば2,000人から3,000人の「巡礼者」が訪れた。 古代からマイエリヒにあった教会の荘園は、ヴェルヴァーに教会が建設される前からそれに類するものがここにあったことを推測させる根拠となっている。ケルン大司教ハインリヒ2世・フォン・フィルネブルク(ドイツ語版、英語版)は1326年、ヴェルヴァーの司祭に「古代」に住居があった "Mederike"(マイエリヒ)に住むよう命じた。ヴェルヴァー地区での教会の発展に関わるできごとを考察し、列記すると以下のようになる: 8世紀 ?: マイエリヒに木造教会が建設され、聖アルバヌスを守護聖人とした。この教会は、破壊、火災、倒壊あるいはその他の理由で取り壊された。 10世紀から11世紀 ?: ヴェルヴァーの領主が、その館の近くに私有の教会を建設し、古くからのアルバヌスの守護を受け容れ、さらにその下位に「流行」にしたがって聖キリアクスの守護を置いた。 12世紀から13世紀: この私有教会が教区教会に発展し、ヴェルヴァー領主家がその守護権を持った。 13世紀から14世紀: この教区教会が修道院教会に転用され、それに伴い拡張された(1245年 - 1254年)。教区は修道院に編入された(1326年)。
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