教会制度の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 05:57 UTC 版)
「アイスランドのキリスト教化」の記事における「教会制度の発展」の解説
改宗後のアイスランド人にキリスト教の知識をもたらしたのは主に外国からの司祭であった。アリの伝えるところでは3人の司祭はアルメニアから来たというが、博識であり「本知り」「書物通」と呼ばれたバーナード(アイスランド語でビャルンハルドまたはベルンハルド)は、ノルウェーの聖オーラブ王がアイスランドの法律をキリスト教精神に則った内容にする意図からアイスランドに送り込んだイングランド出身の司祭であった。 こうした中、ゴジはそれまで異教の神々のためにあった神殿を教会に変えたり、子供を聖職者にしたりして、地位の保全に努めた。たとえば〈白い〉ギツールはスカルホルトに転居してキリスト教の布教に努め、息子イスレイブ(英語版)をドイツに留学させてアイスランドの最初の司教にしている。彼はスカルホルト司教座を開いたが、彼の息子ギツール(英語版)がその職を継ぐなど、司教は多くの場合ゴジの家系が代々継いでいった。約200年の間、教会は所有地を持つ権限がなく、一般人が教会の土地や財産を管理していた。1096年に教会に十分の一税を納める義務が決められると、税が教会のある農場を持つゴジや農民の収入となり、複数の教会を持つ人もいた。教会を私有するゴジが司祭となって二重の権威を帯びることもあった。 アイスランドの司教座は、当初ハンブルク=ブレーメン大司教管区の管轄下にあったが、1104年にデンマークのルンドの大司教区がスカンディナヴィア全体を管轄した。やがて1153年にノルウェーにニザロース(英語版)大司教座が設けられると、アイスランドはオークニー諸島、ヘブリーデス諸島、フェロー諸島、グリーンランドと共にその管轄下に入った。ニザロース大司教はアイスランドの司教を援助することもあったが、ハーコン・ハーコナルソン王の時代までは、王権のそれと同様に影響力はまだ限定的なものであった。。アイスランドの多くの司祭は一般の人々と同様に行動し、しばしば殺人や告訴にも関与しており、ニーザロス大司教を苦慮させていた。ニザロース大司教であったエイステイン・エルレンズソンは1173年、アイスランドの聖職者だけでなく全島民に対し、殺人の禁忌や特定の場合を除いて告訴をしないよう呼びかけた。しかしエイステインはスヴェレ・シグルツソン王と争い続けついには国を追われることとなり、この大司教の願いに島民が応じることはなかった。 なお、1000年のアルシングで認められた、馬肉を食べること、幼児殺し、そして非公式に行われる異教の儀式は、教会がアイスランドを確実に管理していくにつれ禁止された。
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