教会分裂の収拾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:46 UTC 版)
「クレルヴォーのベルナルドゥス」の記事における「教会分裂の収拾」の解説
1137年、ロタール2世の最後のローマ訪問に伴ってベルナルドゥスもイタリアへ戻り、モンテ・カッシーノでベネディクト会内の問題の解決にあたり、サレルノではシチリア王と破門された対立教皇アナクレトゥス2世の離間を狙ったが、これは果たせなかった。アナクレトゥス2世は1138年3月13日になくなったが、支持者たちは次の対立教皇を擁立した。これがウィクトル4世である。しかしベルナルドゥスの長年の運動の結果、対立教皇は支持基盤の多くを失っており、自ら退位し、ここに教会分裂は収拾、ベルナルドゥスもようやくクレルヴォーに戻ることができた。 クレルヴォー修道院自体もこの頃には、簡素さを好んだベルナルドゥスの意図と裏腹に「有名な院長」にふさわしい規模と内容に作りかえられていた。ベルナルドゥスの圧倒的な影響力はピエール・アベラールとの論争において明白となる。1140年のサンスでの宗教会議では、当代随一の学識で売り出し中だった気鋭の学者アベラールも、年下のベルナルドゥスの前ではかたなしであり直接討論中に退場する。結局、アベラールは有罪宣告を受けることになる。 ベルナルドゥスが有名になったことで、シトー会も大発展をとげた。1130年から1145年の間に、少なくとも93の修道院がシトー会に加入あるいは新設された。修道院の地域はイングランドやアイルランドにまで及んだ。1145年にはシトー会出身の修道士のローマ近郊のアクエ・シルヴィエの院長であったベルナルド・パガネッリが教皇に選ばれ、エウゲニウス3世を名乗った。このことはヨーロッパにおけるベルナルドゥスの影響力が頂点に達したことを示す出来事であった。
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