十字軍の勧誘と晩年
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「クレルヴォーのベルナルドゥス」の記事における「十字軍の勧誘と晩年」の解説
教会分裂の収拾を達成したベルナルドゥスが次に要請されたのは、異端との戦いであった。アルビジョワ派が当時異端として世間を騒がせていた。特にローザンヌのアンリという説教師の名前が知れ渡っていた。1145年6月、オスティアのアルベリック枢機卿の招きによってベルナルドゥスは盛んに説教を行い、異端の影響力が及ぶのを食い止めるのに成功した。また、教皇の願いに応じて十字軍の勧誘演説を行うことになった。この効果は絶大で、ヴェズレーでの会談でフランスの諸侯の前でベルナルドゥスが十字軍への勧誘をおこなった結果、感動した諸侯は続々聖地へと赴いた。その中にはフランス王ルイ7世、当時その王妃だったアリエノール・ダキテーヌなども含まれていた。さらに各地を回って遊説した結果、熱狂的な十字軍運動を巻き起こし、神聖ローマ皇帝コンラート3世も十字軍に加わった。 しかし肝心の十字軍が惨敗したことが、ベルナルドゥスに大きなショックを与えた。彼はなぜ神がこのような結末を許したのかと自問し、結局従軍者の犯した罪によるのだと結論した。ベルナルドゥスは十字軍敗退の知らせをクレルヴォーで聞いたが、そこにはアルノルド・ダ・ブレシアの反乱によってローマを追われたエウゲニウス3世もかくまわれていた。1148年にはベルナルドゥスは教皇とともにランス教会会議に参加、スコラ学者でポワチエ司教のジルベール・ド・ポルレの学説を攻撃したが、そのころには十字軍の失敗などによってベルナルドゥスの影響力はかなり弱まっていた。 十字軍の敗北によって、新しい軍勢を投入しようという動きが起こり、フランスの霊的指導者となっていたサン・ドニ修道院の院長シュジェールの招きでシャルトル教会会議に参加したベルナルドゥスは、教皇の求めで自ら十字軍の陣頭に立つことを要請された。幸い、クレルヴォーの院長職の責任からこの任務を免れたが、さまざまな出来事や論争、親友の死などによってベルナルドゥス自身も衰えていた。しかし、明晰な頭脳が死ぬまで衰えなかったことは、最後の著作『デ・コンシデラチオーネ』(De consideratione)が証している。1153年8月20日、ベルナルドゥスは死去した。自ら開いたクレルヴォー修道院が最期の地となった。
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