十字軍の勧誘と晩年とは? わかりやすく解説

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十字軍の勧誘と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:46 UTC 版)

クレルヴォーのベルナルドゥス」の記事における「十字軍の勧誘と晩年」の解説

教会分裂の収拾達成したベルナルドゥス次に要請されたのは、異端との戦いであった。アルビジョワ派当時異端として世間騒がせていた。特にローザンヌのアンリという説教師の名前が知れ渡っていた。1145年6月オスティアアルベリック枢機卿招きによってベルナルドゥス盛んに説教行い異端影響力が及ぶのを食い止めるのに成功したまた、教皇願いに応じて十字軍勧誘演説を行うことになった。この効果絶大で、ヴェズレーでの会談フランス諸侯の前でベルナルドゥス十字軍への勧誘おこなった結果感動した諸侯続々聖地へと赴いた。その中にはフランス王ルイ7世当時その王妃だったアリエノール・ダキテーヌなども含まれていた。さらに各地回って遊説した結果熱狂的な十字軍運動巻き起こし神聖ローマ皇帝コンラート3世十字軍加わった。 しかし肝心十字軍惨敗したことが、ベルナルドゥス大きなショック与えた。彼はなぜ神がこのような結末許したのかと自問し結局従軍者の犯した罪によるのだと結論したベルナルドゥス十字軍敗退知らせをクレルヴォーで聞いたが、そこにはアルノルド・ダ・ブレシア反乱によってローマ追われエウゲニウス3世もかくまわれていた。1148年にはベルナルドゥス教皇とともにランス教会会議参加スコラ学者でポワチエ司教のジルベール・ド・ポルレの学説攻撃したが、そのころには十字軍失敗などによってベルナルドゥス影響力はかなり弱まっていた。 十字軍敗北によって、新し軍勢投入しようという動き起こりフランス霊的指導者となっていたサン・ドニ修道院院長シュジェール招きシャルトル教会会議参加したベルナルドゥスは、教皇求めで自ら十字軍陣頭に立つことを要請された。幸い、クレルヴォーの院長職の責任からこの任務免れたが、さまざまな出来事論争親友の死などによってベルナルドゥス自身衰えていた。しかし、明晰な頭脳が死ぬまで衰えなかったことは、最後の著作『デ・コンシデラチオーネ』(De consideratione)が証している。1153年8月20日ベルナルドゥス死去した。自ら開いたクレルヴォー修道院最期の地となった

※この「十字軍の勧誘と晩年」の解説は、「クレルヴォーのベルナルドゥス」の解説の一部です。
「十字軍の勧誘と晩年」を含む「クレルヴォーのベルナルドゥス」の記事については、「クレルヴォーのベルナルドゥス」の概要を参照ください。

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