十字軍の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 23:11 UTC 版)
ウィルブランドは、アンの戦いにて手傷を負ったゲルデルン公やアムステルの領主たちの説得に応じて、戦死した司教オットーの跡を継承した。 ウィルブランドはオランダ公やゲルデルン公と血縁である上、フリードリヒ2世にかつて教皇への使者として仕えていたこともあったからだ。その上、ウィルブランドはオットーと同様に、十字軍に従軍していた経験があった。(第4回十字軍) ウィルブランドはユトレヒト司教に任命される頃、教皇の宮廷に滞在しており、この機会に教皇からドレンテに対する十字軍遠征の許可を得た可能性がある。 しかし、ドレンテ十字軍に対する教皇勅書の記録は残っていない。しかし歴史書Deeds of the Bishopsによるとウィルブランドは教皇より十字軍による贖宥状を授かったとの記述がある。 ウィルブランドはフリース人らに対してキリスト教の教えをもってして十字軍に参加するよう説得しそのまま十字軍の軍勢に組み込んだ。 ドレンテ人らに対する遠征は、ドレンテ人が司教に逆らい殺害までしたことにより異端認定を受けたことから、避けられない模様となった。 先ほどあげた歴史書 Deeds of the Bishops of Utrechtによると、ウィルブランド率いる十字軍は時の教皇グレゴリウス9世により許可されていた、と記述があるものの、教皇が関与していたとする証拠はその他にない上に、この十字軍遠征は司教自身が単独で行おうと思えば可能であった。 「ドイツ王」ハインリヒ(7世)は、アンの戦いの後、ドレンテ側を無法者であると言明したものの、ユトレヒト司教に対してはなんの援助もしなかった。
※この「十字軍の準備」の解説は、「ドレンテ十字軍」の解説の一部です。
「十字軍の準備」を含む「ドレンテ十字軍」の記事については、「ドレンテ十字軍」の概要を参照ください。
十字軍の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:05 UTC 版)
「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「十字軍の準備」の解説
コンスタンティノープルの陥落により、ジョージアはヨーロッパとの交流から隔絶されることとなった。ヨーロッパは新たな地政学的問題に直面した。オスマン帝国のメフメト2世の権力の台頭は、ヨーロッパのカトリックによっての新たな共通の敵を生み出す可能性となった。ジョージアを取り巻く状況の劇的な変化は、ジョージアの王と貴族が団結せざるを得ない状況を作り出した。そして1459年、ジョージア王国とサムツヘ(グルジア語版)は休戦協定を締結した。ギオルギ8世はその後、イスラム世界に反発し、十字軍の中心となって反撃する機会を伺った。 1452年、教皇ニコラウス5世はオスマン帝国からコンスタンティノープルを奪う計画を立ち上げたが、1455年4月に教皇が死去したことで、この計画は終了となった。1456年、カリストゥス3世の教皇特使ルドヴィコ・ダ・ボローニャ(グルジア語版)がジョージアを訪問し、ジョージア王国とジョージア正教会に関する包括的な報告書を作成してローマに提出した。ボローニャは報告書において、住民の敬虔さと、地域の内戦によって引き起こされた深刻な状況を強調した。この報告の後、教皇庁は使節の派遣をギオルギ8世に要請。1459年9月、新教皇ピウス2世はオスマン帝国に対する十字軍遠征を主張した。1459年11月からはギオルギ8世、クヴァルクヴァレ2世、ピウス2世、ヴェネツィアのパスクアーレ・マリピエロ(イタリア語版)公、ブルゴーニュのフィリップ3世公の間での定期的な情報連携が始まった。 ギオルギ8世は十字軍計画の一環として、合計12万人(一部の情報源によると14万人)の兵士を動員することを約束した。内訳はジョージア本国から4万人、ジョージアの保護下にあったトレビゾンド帝国から3万人、アルメニアから2万人、サムツヘから2万人、サメグレロ(グルジア語版)から1万人であった。その他、グリア(グルジア語版)からの支援としてアナコピアの港から船舶30隻が想定され、また白羊朝のウズン・ハサンがオスマン帝国の都市ブルサの領有権を主張していたことから分遣隊の派遣も期待された。ジョージア王国による十字軍の想定計画は、ジョージア軍がアナトリアへ侵攻、クヴァルクヴァレ2世の部隊がパレスチナに向かって前進し、ヨーロッパの諸国はギリシャで別の戦線を開くというものであった。 1460年、トビリシのニコラス主教とサメグレロのカサダン・カルチハンがジョージア、アルメニア、トレビゾンド、ペルシャの各国使節を連れてヨーロッパに向かい、ウィーンで神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と会談した。続いて使節団はヴェネツィアを訪問して議会の歓迎を受け、フィレンツェではカトリック評議会に出席した。そして使節団はローマで教皇ピウス2世と会談した。このとき、ピウス2世はギオルギ8世を「ペルシャの王」、サモカラコ(グルジア語版)のバグラト(グルジア語版)公を「イベリアの王」と呼ぶ間違いを起こしている。ローマにおいて教皇ピウス2世は、軍事援助を確保するため、ヨーロッパ全土に使節を送った。 1461年5月、使節団はフランス王シャルル7世との会談のためパリに移動したが、シャルル7世は病床に伏しており、重要な決定を下すことができなかった。サントメールでジョージアの使節はブルゴーニュのフィリップ3世公と会談したが、フィリップ3世は十字軍遠征によって不在となった場合の公位の行方を恐れて、十字軍への参加に消極的であった。ヘントではブルゴーニュの貴族の代表と会談を行ったが、戦争による利益で彼らを納得させることはできなかった。8月11日、使節団はフランスのルイ11世の戴冠式に出席するためパリに戻ったが、ルイ11世はフランス国内の問題に直面しており、いかなる軍事作戦にも参加することを拒否した。 ヨーロッパ諸国の君主たちが参戦を拒否したことにより、十字軍の計画は失敗となった。ジョージアの使節は帰国し、次の言葉を述べた。 時機を得ることができなくば、ヨーロッパはウィーン門(英語版)でトルコ人を見ることになる。
※この「十字軍の準備」の解説は、「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の解説の一部です。
「十字軍の準備」を含む「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事については、「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の概要を参照ください。
- 十字軍の準備のページへのリンク