オスマン帝国の都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 05:44 UTC 版)
メフメト2世が、1453年にコンスタンティノポリスを陥落させて市街に入城した時、30万から40万人の人口を擁し、「世界の富の3分の2が集まるところ」とされたこの都市は、ほとんど廃墟と化していた。メフメト2世はすぐさまコンスタンティノポリスの再建を指示し、アナトリア半島の各地からトルコ人のみならず、エジプト人、シリア人、ペルシャ人のほか、ユダヤ人、アルメニア人、ギリシャ人などの非イスラーム教徒をも移住させた。征服時に数千人にまで減少した都市の人口は、1480年頃には7万人に回復し、スレイマン1世の即位時には40万人、16世紀末には70万人にまでふくれあがる。このような急速な都市の発達により、イスタンブールにはキュッリイェを除けば明確な都市計画はない。都市住民は建てたいところに庭の付随する木造2階建ての住居を建設し、官憲の監視(あまり厳しいものとは言えないが)にもかかわらず、時には道路の形状まで変えてしまうほどであった。このため、イスタンブールには大通りと呼べるものはディーヴァーン・ヨルと命名された通りしかなく、そのほかの道では馬車ですら通すことが出来ないほどで、物品の運搬は人力に頼るものであった。また、東ローマ帝国の時代には積石造の壁体であった一般家屋も、オスマン帝国の時代には木造、練り土壁となったが、このような都市構造は火災に対して非常に脆弱で、しばしば深刻な被害を受けた。しかし、帝国の全時代を通じて古代の地中海特有の整然とした都市形態は採用されず、現代に至っている。 地方都市では、イスタンブール以上に都市は無計画に形成されたと言ってよい。オスマン帝国では、大〜中規模の都市に人口が集中する傾向にあり、スレイマン1世の統治下40〜50年程度の間に、3倍もの人口増加を経験したカイセリのような都市もあった。また、中世以降のヨーロッパの都市のような行政組織もなく、オスマン帝国の都市居住者には、都市計画という概念はまったくなかった。16世紀初頭まで、東ローマ帝国によって建設された都市ではかつての街路が生き残っていたが、16世紀の経済的発展のなかで侵食され、ついには消滅していった。その無秩序ぶりは、都市の生活水準が高いとはとても言えないはずの当時の西ヨーロッパの旅行者ですら、呆れさせるほどである。都市の混沌は急速な経済的発展を遂げたことを意味しているが、このような都市として、アナトリアの中心都市であったブルサや羊毛の輸出拠点であったアンカラ、海上交易によって発展したイズミル、ペルシャからの交易中継地であったアレッポ、メッカへの巡礼中継地であったダマスカス、ヨーロッパ方面の軍事拠点都市であったエディルネなどを挙げることができる。 無秩序に形成された都市の路地は迷路のように入り組み、ほとんどの場合、袋小路になっていた。近隣の関係性を無視して形成された結果であったが、このような路地空間が近隣住民のコミュニティの場となっていた。オスマン帝国の都市には街区ごとのモスクの存在もあり、広場というものは必要とされなかった。
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