オスマン帝国への攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)
「ムハンマド・アリー」の記事における「オスマン帝国への攻勢」の解説
1839年4月、肺結核のため死に瀕していたマフムト2世はオスマン帝国軍8万をシリアに侵攻させた。ムハンマド・アリーは当初ヨーロッパ諸国の介入を警戒しイブラーヒーム・パシャに自制するよう命じていたがやがて迎撃に転じた。6月24日、イブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍は現在のトルコ共和国ガズィアンテプ付近でオスマン帝国軍を撃破し、1万4000人を捕虜にした。さらにマフムト2世が7月1日に病死し、アブデュルメジト1世が跡を継いだ直後の7月7日、オスマン帝国海軍大提督アフメット・フェウズィ・パシャ(アフマッド・ムシル)が指揮下の全艦隊を率いてムハンマド・アリーに降伏した。確執のあるヒュスレヴ・パシャがアブデュルメジト1世のもと新宰相に就任したことを、アフメット・フェウズィ・パシャが嫌ったのが原因の一つと言われている。窮地に立たされたオスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、全支配地域における統治権の世襲を認める構えを見せた。
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