オスマン帝国の襲来
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14世紀、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの元で全盛期を迎えた中世セルビア王国もドゥシャン死後、後を継いだステファン・ウロシュ5世は若年で軍事、政治の才能が乏しかったため分裂、テッサリアは叔父のシメオン・ウロシュが、ヴァルダル川左岸は甥のデヤノヴィチが、西マケドニアはプリレプのヴカシン(en)がそれぞれ公として独立を宣言する事態に至っていた。 しかしこの分裂はビザンツ帝国の内紛に乗じてガリポリ半島に橋頭堡を築いていたオスマン帝国にチャンスを与えた。1360年、アドリアノープルを占領したオスマン帝国軍は徐々に勢力を拡大、1389年6月15日、コソヴォ・ポリェへ至ったオスマン帝国軍は中世セルビア公国を中心とした諸侯軍をコソボの戦いで撃破、ここにオスマン帝国のバルカン半島支配が成立した。 しかし、セルビア公国はすぐさま滅んだわけではなかった。規模こそ縮小されたが、オスマン帝国がティムールの攻撃に悩まされている間、ごく短期間ではあったが、息を継ぐことができた。1427年以降、セルビアはハンガリーの援助を受けながらオスマン帝国への抵抗を続けたが、1441年にはセルビアの大部分がオスマン帝国の手に落ち、1441年、最後の要塞スメデレヴォが陥落したことでセルビア公国は完全にその息の根を止められ、ツルナゴーラのみが辛くもその手から逃れることができた。
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オスマン帝国の襲来
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「ギリシャの歴史」の記事における「オスマン帝国の襲来」の解説
13世紀末に成立したオスマン帝国は小アジアのビザンツ帝国を占領、14世紀に入ると海を越えてバルカン半島の攻略を開始した。これに対抗できるはずであったブルガリア帝国やセルビア帝国も弱体化しており、1393年に第二次ブルガリア帝国を攻め滅ぼすと、翌年にはコンスタンティノープルを包囲、ペロポネソス半島にまで手を伸ばした。オスマン帝国の攻勢はスルタンバヤズィト1世がティムールによって捕虜とされ、オスマン帝国が分裂状態に陥ったことで一時止んだものの、1422年、復活を遂げたオスマン帝国は再び侵略の手を伸ばし、1449年にはテッサロニキが占領され、最終的に1453年、コンスタンティノープルが陥落した。最後に残ったミストラも1460年に降伏し、一部の島嶼を除くギリシャはオスマン帝国領土と化した。
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