コソボの戦いとは? わかりやすく解説

コソボの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/06 08:56 UTC 版)

コソボの戦い

戦争:オスマン帝国のヨーロッパ侵攻
年月日:1389年6月15日
場所コソボ平原
結果:オスマン帝国の圧勝
交戦勢力
セルビア公国
ボスニア王国
オスマン帝国
指導者・指揮官
ラザル・フレベリャノヴィチ 
トヴルトコ1世英語版
ミルチャ1世
ムラト1世 
バヤズィト1世

コソボの戦い(コソボのたたかい、セルビア・クロアチア語: Bitka na Kosovuボスニア語: Kosovska bitkaトルコ語: I. Kosova Muharebesi)は、1389年コソボで勃発した、セルビア公国オスマン帝国による会戦である。

経過

1389年6月15日[1]コソボ平原で、セルビアラザル・フレベリャノヴィチボスニアスチェパン・トヴルトコ1世英語版ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン帝国軍と会戦した。戦いはオスマン帝国軍の大勝に終わった。

影響

この戦いの結果、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア・マケドニアブルガリアはオスマン帝国への服従を強いられる。この戦いでオスマン帝国はバルカン半島征服に大きな成果を獲得した。ところが、ムラト1世はセルビア貴族ミロシュ・オビリッチ[2]の謁見の際に刺し殺されてしまう。そしてオスマン軍は報復に捕虜のセルビア侯ラザルを殺害。すぐにバヤズィト1世スルタンに即位。バルカン征服事業を継承する。オスマン帝国というイスラム勢力がバルカン半島での存在感を確固たるものにしたことは、ヨーロッパ・キリスト教世界を刺激し、神聖ローマ皇帝ジギスムントをはじめとするヨーロッパ諸侯は「十字軍」を結成し1396年ニコポリスの戦いに至る。

戦地となったコソボはセルビア王国の聖地となった。のち、1980年代セルビア民族主義を掲げるミロシェヴィッチが台頭すると、コソボ自治権を大幅に制限し、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナなどで難民となったセルビア人を入植させる政策がとられた。このためコソボでの民族バランスが大きく崩れることとなり、1990年代後半のコソボ紛争へとつながっていった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 6月28日と書かれることも多いが、これはグレゴリオ暦に換算したものである。グレゴリオ暦の施行は1582年で、コソボの戦いの時点では施行されていない。なお、6月28日はセルビア正教会の聖者ウィトゥス (en:Vidovdan) の祝日である。
  2. ^ コビリッチ、コビロヴィッチとも。

関連項目


コソボの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:40 UTC 版)

ムラト1世」の記事における「コソボの戦い」の解説

1381年王子バヤズィトとゲルミヤン侯国英語版)の王女デウレト・ハトンの婚姻成立させ、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤ、エメト、タウシャンル、スィマヴを獲得したハミド侯国には圧力をかけ、ウスパルタカラアーチアクシェヒル、セイディシェヒル(英語版)を買収したまた、アナトリアでのオスマン帝国拡大カラマン危機感を抱かせ、アナトリアオスマン領はカラマン侯国攻撃受けたムラトキュタヒヤに軍を集結してカラマン首都コンヤ進軍しカラマン平野戦闘勝利を収める。この時にムラト率いていた軍には、同盟国であるビザンツブルガリアセルビア兵士加わっていた。1387年カラマンオスマン侯国から奪った土地の返還認め和平結んだ同年4年包囲の末にビザンツ帝国勢力圏にあったペロポネソス半島主要都市であるテッサロニキオスマン帝国の支配下に入る。ビザンツ皇帝マヌエル2世オスマンへの臣従拒んでいたが、テッサロニキ攻略後にムラトマヌエル2世から臣従誓い受けた一方バルカン半島ではセルビアボスニアクロアチアアルバニアが反オスマン同盟を結び、オスマン帝国臣従していたブルガリア密かに同盟参加していた。ムラトセルビアへの進軍先立ち1386年大宰相アリー・パシャブルガリア派遣したアリー・パシャブルガリア軍ニコポリス破り1388年までにブルガリア大部分オスマン支配下入ったムラト以前同じようにシシュマンを手厚く待遇しオスマンへの協力を誓わせた。 とはいえ1386年あるいは1387年には、ボスニア侵入した20,000非正規騎兵(アクンジュ)がプロシュニク(英語版)でセルビア・ボスニア連合軍大敗喫する事件起きる(プロシュニクの戦い英語版))。また、セルビアラザル・フレベリャノヴィチの下にはブルガリアワラキアアルバニアハンガリーから援軍集まり、セルビア・ボスニア連合軍兵数急速に増加していった。 1389年春、ムラトセルビア親征行いオスマン軍バルカン諸侯連合軍コソボ平原激突する(コソボの戦い)。オスマン軍戦闘勝利を収めたが、ムラト戦闘最中セルビア人貴族ミロシュ・オビリチ英語版)によって殺害される戦後報復としてラザルはじめとするバルカン諸侯ムラトの跡を継いだバヤズィトによって処刑された。戦勝結果セルビアオスマン支配下入りバルカン半島におけるオスマン版図はより拡大した

※この「コソボの戦い」の解説は、「ムラト1世」の解説の一部です。
「コソボの戦い」を含む「ムラト1世」の記事については、「ムラト1世」の概要を参照ください。

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