コソボの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/06 08:56 UTC 版)
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2012年2月) ( |
コソボの戦い | |
---|---|
![]() | |
戦争:オスマン帝国のヨーロッパ侵攻 | |
年月日:1389年6月15日 | |
場所:コソボ平原 | |
結果:オスマン帝国の圧勝 | |
交戦勢力 | |
![]() ![]() |
![]() |
指導者・指揮官 | |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
コソボの歴史 |
---|
![]() |
古代 - 中世 |
イリュリア |
ローマ帝国 (100 BC - 395 AD) |
東ローマ帝国 (395 - 839) |
ブルガリア帝国 (839 - 1241) |
セルビア王国 |
コソボの戦い |
オスマン帝国(1455 - 1912) |
ルメリ |
コソボ州 (en) |
アルバニア民族覚醒 (en) |
プリズレン連盟 |
20世紀以降 |
第一次バルカン戦争 |
セルビア王国 |
ユーゴスラビア王国 |
アルバニア王国 |
コソボ・メトヒヤ自治州 (1946 - 1974) |
コソボ社会主義自治州 (1974 - 1990) |
コソボ共和国(1990 - 2000) |
コソボ・メトヒヤ自治州 (1990 - 1999) |
コソボ紛争 (1996 - 1999) |
UNMIK(1999 - 2008) |
コソボ共和国 (2008 -) |
コソボの戦い(コソボのたたかい、セルビア・クロアチア語: Bitka na Kosovu、ボスニア語: Kosovska bitka、トルコ語: I. Kosova Muharebesi)は、1389年にコソボで勃発した、セルビア公国とオスマン帝国による会戦である。
経過
1389年6月15日[1]、コソボ平原で、セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチ、ボスニア王スチェパン・トヴルトコ1世、ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン帝国軍と会戦した。戦いはオスマン帝国軍の大勝に終わった。
影響
この戦いの結果、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア・マケドニア・ブルガリアはオスマン帝国への服従を強いられる。この戦いでオスマン帝国はバルカン半島征服に大きな成果を獲得した。ところが、ムラト1世はセルビア貴族ミロシュ・オビリッチ[2]の謁見の際に刺し殺されてしまう。そしてオスマン軍は報復に捕虜のセルビア侯ラザルを殺害。すぐにバヤズィト1世がスルタンに即位。バルカン征服事業を継承する。オスマン帝国というイスラム勢力がバルカン半島での存在感を確固たるものにしたことは、ヨーロッパ・キリスト教世界を刺激し、神聖ローマ皇帝ジギスムントをはじめとするヨーロッパ諸侯は「十字軍」を結成し1396年のニコポリスの戦いに至る。
戦地となったコソボはセルビア王国の聖地となった。のち、1980年代にセルビア民族主義を掲げるミロシェヴィッチが台頭すると、コソボの自治権を大幅に制限し、クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナなどで難民となったセルビア人を入植させる政策がとられた。このためコソボでの民族バランスが大きく崩れることとなり、1990年代後半のコソボ紛争へとつながっていった。
脚注
- ^ 6月28日と書かれることも多いが、これはグレゴリオ暦に換算したものである。グレゴリオ暦の施行は1582年で、コソボの戦いの時点では施行されていない。なお、6月28日はセルビア正教会の聖者ウィトゥス (en:Vidovdan) の祝日である。
- ^ コビリッチ、コビロヴィッチとも。
関連項目
コソボの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:40 UTC 版)
1381年に王子バヤズィトとゲルミヤン侯国(英語版)の王女デウレト・ハトンの婚姻を成立させ、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤ、エメト、タウシャンル、スィマヴを獲得した。ハミド侯国には圧力をかけ、ウスパルタ、カラアーチ、アクシェヒル、セイディシェヒル(英語版)を買収した。 また、アナトリアでのオスマン帝国の拡大はカラマンに危機感を抱かせ、アナトリアのオスマン領はカラマン侯国の攻撃を受けた。ムラトはキュタヒヤに軍を集結してカラマンの首都コンヤに進軍し、カラマン平野の戦闘で勝利を収める。この時にムラトが率いていた軍には、同盟国であるビザンツ、ブルガリア、セルビアの兵士が加わっていた。1387年、カラマンはオスマン侯国から奪った土地の返還を認め、和平を結んだ。 同年、4年の包囲の末にビザンツ帝国の勢力圏にあったペロポネソス半島の主要都市であるテッサロニキがオスマン帝国の支配下に入る。ビザンツ皇帝マヌエル2世はオスマンへの臣従を拒んでいたが、テッサロニキの攻略後にムラトはマヌエル2世から臣従の誓いを受けた。 一方、バルカン半島ではセルビア、ボスニア、クロアチア、アルバニアが反オスマンの同盟を結び、オスマン帝国に臣従していたブルガリアも密かに同盟に参加していた。ムラトはセルビアへの進軍に先立ち、1386年に大宰相アリー・パシャをブルガリアに派遣した。 アリー・パシャはブルガリア軍をニコポリスで破り、1388年までにブルガリアの大部分がオスマンの支配下に入った。ムラトは以前と同じようにシシュマンを手厚く待遇し、オスマンへの協力を誓わせた。 とはいえ、1386年あるいは1387年には、ボスニアに侵入した20,000の非正規の騎兵(アクンジュ)がプロシュニク(英語版)でセルビア・ボスニア連合軍に大敗を喫する事件が起きる(プロシュニクの戦い(英語版))。また、セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチの下にはブルガリア、ワラキア、アルバニア、ハンガリーから援軍が集まり、セルビア・ボスニア連合軍の兵数は急速に増加していった。 1389年春、ムラトはセルビアに親征を行い、オスマン軍とバルカン諸侯の連合軍はコソボ平原で激突する(コソボの戦い)。オスマン軍は戦闘で勝利を収めたが、ムラトは戦闘の最中にセルビア人貴族ミロシュ・オビリチ(英語版)によって殺害される。戦後、報復としてラザルをはじめとするバルカン諸侯がムラトの跡を継いだバヤズィトによって処刑された。戦勝の結果セルビアがオスマンの支配下に入り、バルカン半島におけるオスマンの版図はより拡大した。
※この「コソボの戦い」の解説は、「ムラト1世」の解説の一部です。
「コソボの戦い」を含む「ムラト1世」の記事については、「ムラト1世」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- コソボの戦いのページへのリンク