歴史・文化
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椿沢寺 所在地は椿沢町。越後三十三観音札所巡礼地第16番札所。戦国時代に上杉謙信も当寺の千手観音を深く信仰し、祈願成就の返礼として寺領、仏画、陣銅羅等礼状を付けて寄進し、今も寺宝として保存され本尊と共に一代一回の開帳となっている。 戊辰戦争で戦場となった当時の椿沢村において焼き討ちを免れた数少ない建造物のひとつでもある。 小栗山不動院 所在地は小栗山町。越後三十三観音第17番札所。七所山と呼ばれる裏山に経塚が営まれ、銅製仏像等が出土した(出土品は新潟県指定有形文化財)。 毎年8月10日、17日に上演される「獅子舞」は見附市指定無形民俗文化財となっている。 みつけ伝承館 2010年までの所在地は名木野町。廃校となった北谷中学校(現在の南中学校の母体のひとつ)の校舎を利用し1980年6月に開館され、その後2010年4月に学校町に移転した。地域に住む人々が長い間営んできた仕事や暮らしの中で、生み出し積み重ねてきた知恵や工夫を紹介しており、基本テーマは、「はた・くらし・見附」に設定し、見附の古くからの地場産業である「はた」(織物)を中心に、米作りのために必要な農業生産用具、衣食住全般の様々な生活用具などの民俗資料や、市内の遺跡で発掘された考古資料を収集・展示するほか、市民向けに機織講座や陶芸入門教室も開催している。 山吉氏 発祥の地は山吉町。三条長尾家の下で勢力を持った。三条城、次いで木場城を有した。長尾上杉氏とともに出羽国米沢藩(山形県米沢市)へ移る。
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祖先はキリバスのギルバート諸島から渡ってきたと考えられており、住民は今もツバル語のほかにキリバス語を話す。1568年にスペイン人航海士アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラによって発見され、ヘスス島(Isla de Jesús、「ヘスス」とはイエス・キリストのこと)と名づけられた。
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歴史・文化
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鎌倉時代の寺領争いから江戸時代を経て1967(昭和42)年まで続く国境(県境)争いの舞台となった場所である。正確には昭和の県境争いは流域を異にする大長谷川(おおながたにがわ)の源流にあたる原山本谷(金山平とも言う)の北端に限る争議である。ただし江戸時代の争いは金山平と万波高原を含む広大な領地の所有を巡る争いであった。 1674(延宝2)年に江戸幕府の裁定により飛騨金森藩と越中加賀藩の国境が確定したので富山側から見て真南(マミナミ)と呼ばれていたのを万波(マンナミ)と呼ぶようになった。江戸時代は天領であり飛騨国小鷹狩郷12ヶ村の入会地であったが明治になり国有林と飛騨3郡の郡有地となった。 1893(明治26)年に正式に許可を得て個人の開墾・入植が始まり1939(昭和14)年まで住家が存在した。最盛期には82世帯が暮らしていた。開拓当初に神社が建立されたが現在でもその石段と小社は残っている。1910(明治43)年から1939(昭和14)年まで坂下小学校(現在は飛騨市立宮川小学校)の分教場(分校)があった。 1918(大正7)年2月に朝日新聞をはじめ全国紙に豪雪により全集落300余名が餓死したとの報道がなされたが誤報である。
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江戸時代後期には千島列島での交易や漁業の拠点となって栄えており、漁業の拠点となる集落キラクが存在した。現在も、その時代の墓地などの遺構が存在するが、足場が悪くぬかるんでいる。2004年10月22日には北海道遺産に打瀬舟と共に選定される。
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歴史・文化
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プロクプリェの近郊にそびえるヒサル山が、町のシンボルになっている。中世の要塞が残されており、コソボの戦いの英雄の名を冠して「ユグ・ボグダン(en:Jug Bogdan)の塔」と呼ばれる保存状態の良い塔が有名である。
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ティレニア海に面したこの都市は、エウボイア島のギリシャ人によって建設された。
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ガムジグラードはローマ皇帝ガレリウスの生地であり、その宮殿(フェリクス・ロムリアーナ)は世界遺産に登録されている。3世紀から4世紀にかけて造られ、考古学的価値から世界的にも貴重なローマ後期の遺構とされている。多くの歴史的遺物(宝石、モザイク、硬貨、道具、武器など)が見つかり、こうした出土品が4世紀のローマ文明の研究に大きく寄与した。
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歴史・文化
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コウシャッタ族は伝統的に農耕民族であり、トウモロコシなどの栽培と併せ、狩猟採集を行っていた。カゴ製品の技術にも長けている。20世紀に入ると、ルイジアナ部族は保留地で米の栽培とザリガニの養殖を始めた。マスコギ語族のコウシャッタ語(英語版)は21世紀初めの現在では少数派となっていて、ごく少数の若者が学んでいる。テキサス・コウシャッタ部族の首長は、部族語の存続が現在の課題だと語っている。 17世紀と18世紀には、一部のコウシャッタが新興のクリーク連合に加わり、「アッパークリークス」(Upper Creeks)として知られる集団の一部になり、アラバマ族と密接な関連を持った。それ以前、スペイン人によるスペイン領フロリダの内陸部への探検時には、ほとんどすべての場所でコウシャッタの村と接触を行っている。スペイン人らは、彼らと近隣の部族(チアハ(Chiaha)、チスカ・ユチ(Chisca Yuchi)、タスキキ(Tasquiqui )、タリ(Tali )を、まとめて「コステ(Coste)」と呼んだ。この町は恐らくテネシー川流域にあったと見られている。
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歴史・文化
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シャバツ周辺にはセルビア人の歴史上の事件に関する事物が多数見られる。カラジョルジェ・ペトロヴィチ(Karađorđe Petrović)の記念碑を始め、ミルティン王の宮殿であったノヴォ・セロや、ツェル山に作られたコサニンの要塞都市など、サヴァの川岸に建設された古代の都市の遺構も見られる。 ロズニツァの近郊には、セルビア語正書法の父、ヴーク・カラジッチの生地、トルシチ村が存在する。トルシチのそばには、14世紀に建設され、ネマニチ朝最古の寄進地のひとつであったトロノシャ修道院がある。セルビアの文化と伝統の保護について大きな役割を果たした修道院である。長い期間にわたって(とりわけ14世紀に)、写字学校(印刷技術以前には、宗教文書は修道院などで手書きで筆写していた)の伝統のよりどころとなっていた。結果として、セルビア人の歴史と文化に関する多くの書物が筆写され現代まで伝えられたのである。
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歴史・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:54 UTC 版)
フォンテイン洞窟の岩絵 15世紀にスペイン人がアルバへ入植を始めた際に、既にアルバに定住していたのは、アラワク語族のカケティオ人(英語版)であり、彼らが残した岩絵は、今日でもみることができる。その中から、鳥の意匠を写しとったものが、公園のロゴにもなっている。岩絵がみられる場所は、石灰岩台地にある洞窟の壁や天井と、ドレライト層の巨礫である。岩絵には、人を象った要素、幾何学的な要素、動物を象った要素があり、赤、白、茶色の陰影で描かれている。フォンテイン洞窟 (Fontein Cave)の岩絵は、人を象った要素は手の形だけ、動物を象った要素も抽象的なものが一種類だけだが、洞窟の浅い部分にだけに岩絵が存在する構造が、洞窟に岩絵を描く際には自然の採光が得られる場所が選ばれたことを、如実に示している。クアディリキリ洞窟の岩絵は、人を象った要素が豊富で、手の形の他に目などの顔の造作、全身の人形も描かれている。人形は、躍動的で具象的な描き方になっている点も特徴。動物を象った絵には、単純で抽象的なものもあれば、もう少し写実的なものもある。アルバの岩絵で最も凝ったものは、クヌク・アリコクのドレライト巨礫に描かれた岩絵で、動物を象った要素が豊富にあり、人を象った要素も複雑なものになっている。そのいずれにも、二色で描かれた岩絵が含まれている。 アルバ島は、農耕には難しい環境であるが、過去にはそれに挑んだ痕跡が、モロコシや豆が残る農地跡にみることができる。農地には、農家が暮らす家も建てられており、そのような家屋が2軒、園内で復元され、見学することができる。家屋は、元々建てられた時と同じ、現地で入手できる自然の資材を使って作られ、住居の他に納屋や便所、脱穀場、豚小屋などもあり、往時の生活様式を垣間見ることができる。家屋の建築様式は、アルバの伝統的なもので、壁や屋根の外面に粘土が塗られており、その外観から“Cas di Torto”と呼ばれている。 1800年代の前半には、アルバで金脈が発見され、金の採掘を行った跡が園内には広がっている。島内最大の金鉱であったミララマル (Miralamar) では、立て坑跡や廃屋を見学することもできる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 15:55 UTC 版)
縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。 平安時代、838年に神津島で起きた火山噴火に際し、新島島民が神津島の島民全滅を朝廷に報告した記録があり(『続日本後紀』)、その50年後である886年には新島自体が火山噴火によって、島民が全滅しているが、報告するものがいなかったとされる。 江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1,333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。 また、流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。 長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。 かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいると言ういくつもの逸話が村にある。 今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ごし、扉にはトベラの小枝を挿して早寝する。代官の宿であった者の自宅では祠を設けて霊を祀り、現在でも当日の深夜に海岸へ向かう等の無言の行を行う。その翌日は子だまり、と言われており、子供を中心に同じことが行われるが、そうして親子2回に分けて催行される経緯は不明。
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歴史・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 13:52 UTC 版)
西本願寺新潟別院:お取越し。 与板城跡(県指定史跡) 本与板城跡
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歴史・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 22:57 UTC 版)
渥美半島の歴史は古く、今から2.5万年ほど前から多くの人々が行き来していたといわれる。陸路より海路の方が有利であった時代、海を渡って西の紀伊半島などから文化が伝わりやすく、また伊勢神宮と海を挟んで対峙していることから政治・経済・文化の中心地として栄えた。特に伊良湖岬は、その詩情あふれる自然と素朴な人情が旅人を惹きつけ、万葉の時代より歌枕として歌われた。柿本人麻呂、西行、松尾芭蕉をはじめとする文人たちが訪れて詠んだ歌が現在でも伝わっている。江戸時代においては、田原藩1万2千石の拠点となり、幕末の先覚者渡辺崋山らを輩出した。このような歴史的環境のもと、渥美半島には数多くの文化財および史跡が存在する。 吉胡貝塚(国の史跡) 縄文時代後期末・晩期を中心とする、約3,000平方メートルにわたる貝塚。1922・1923年(大正11・12年)に京都大学の清野謙次が人骨307体を発掘して有名となり、1951年(昭和26年)国の史跡に指定された。これまでの調査で人骨358体が確認されており、縄文人骨出土数では日本一である。吉胡貝塚は、国が発掘した最初の遺跡であり、日本の人種論の議論の中心となった。また、人骨のほか、貝・土器・石器・骨角器や丁寧に埋葬された10体以上の犬の骨も出土している。2007年(平成19年)、公園や屋外の展示施設、資料館等が整備された。。 渥美古窯(あつみこよう) 渥美半島全域40キロメートルわたって分布する100群・500基を超える陶器を焼いた窯群の総称で、平安時代の終わりごろから鎌倉時代(12世紀〜14世紀初頭)にかけて営まれた。そのうち大アラコ古窯跡、伊良湖東大寺瓦窯跡、百々陶器窯跡の3つが国の史跡に指定されている。渥美古窯の窯は斜面に船底状の穴を掘り、壁と床に粘土を貼り、さらに天井をつけた窖窯(あながま)である。主に日常生活で使う甕、壺、山茶碗、小皿などが生産されたが、特注品として焼かれた宗教的色彩の濃いものも出土している。また、神奈川県川崎市で1942年(昭和17年)に出土し、中世の焼き物で唯一、美術工芸品として国宝に指定されている「秋草文壺」も焼かれていた。これらの製品は海を渡って各所に流通したが、鎌倉時代の終わりごろから瀬戸や常滑など他の窯の製品との競争に敗れ、また政治支配の交替も加わって衰退し、やがて姿を消した。 伊良湖東大寺瓦窯跡(いらごとうだいじかわらがまあと)(国の史跡) 渥美古窯のひとつで、奈良東大寺鎌倉再建時の瓦を焼いた窯跡。全長11.3〜11.5メートル、幅は2.5メートルほどで、分焔をともなう船底型の構造をしている。1965年(昭和40年)に地上窯1基、翌年に窖窯3基が発掘され、1967年(昭和42年)に国の史跡に指定された。これまでに出土した「東大寺大佛殿瓦」「大佛殿」「東」などと刻印された軒丸瓦や軒平瓦、平瓦は、田原市渥美郷土資料館の埋蔵文化財室に展示してある。2004年(平成16年)には、窯跡もふくめて初立池公園として、初立池の周りに周囲2キロメートルの散歩道ややすらぎ広場、駐車場などが整備された。 田原城址 1480年(文明12年)頃に戸田宗光により築かれた。築城当時は城のすぐ下まで干潟が迫り、満潮時に海水が城を取り囲む様子が「巴文(ともえもん)」に似ていることから、巴江城とも呼ばれる。城は、本丸・二の丸・三の丸・出曲輪、藤田丸があり、天守閣は無かった。1547年今川義元へ人質として送られる松平竹千代(のちの徳川家康)を戸田氏が奪い織田信長に送ったため、今川義元に攻められ落城。今川氏・戸田氏による短い支配を経て1664年(寛文4年)、城主は三宅氏に代わり、明治維新まで12代約200年続いた。現在、本丸には藩主三宅康貞と児島高徳をまつる巴江神社、二の丸には田原市博物館・二の丸櫓(再建)、三の丸には、護国神社、出曲輪には崋山会館と崋山神社が建設されている。なお、東京都千代田区にあって、国立劇場や最高裁判所の所在地として知られる「三宅坂」の地名は、江戸時代に田原城主・三宅氏の上屋敷があったことに由来する。 池ノ原公園(市指定史跡) 幕末の蘭学者・画家・政治家として活躍した渡辺崋山が晩年を過ごし、49歳で自ら果てた屋敷跡。1793年(寛政5年)に江戸の田原藩上屋敷で生まれた崋山は、幼少のころから学問や絵に親しみ、40歳で藩の家老職に就いてからは田原藩の繁栄に貢献した。天保の飢饉の際に「報民倉」を設け、一人の餓死者も出さなかったことは有名である。沿海防衛と日本開明のために高野長英らと共に外国事情を研究し、鎖国攘夷の幕府を『慎機論』『鴃舌惑問(げきぜつわくもん)』などを記して批判した。1839年(天保10年)蘭学者弾圧の蛮社の獄によって入牢し、国元の田原で蟄居を命ぜられたが、藩に災いが及ぶのを恐れ自刃した。池ノ原公園内には崋山の幽居跡や銅像、オブジェなどがあり、また公園の一角にある「池ノ原会館」は、茶道・華道・俳句などの文化活動に利用される。 伊良湖射場 1901年(明治34年)、日本陸軍の大砲の実射試験場として、小中山町から西山地区に設置された施設。正式名称は「陸軍字術研究所伊良湖試験場」で、大砲・弾丸の研究や効力実験、弾道研究、採用検査などが行われた。陸軍が使用する大砲や弾薬のほとんどがここで試験検査を受け、戦地へ配備された。1905年(明治38年)には、その用地拡大のため伊良湖集落全村が現在の場所への移転を余儀なくされ、伊良湖神社もこのとき宮山から骨山の中腹に移された。2005年(平成17年)、移転100周年を記念して、「願はしきものは平和なり」と刻まれた伊良湖集落移転記念碑が建てられた。 田原市博物館 田原城二ノ丸跡に建てられた博物館。渡辺崋山や田原藩に関する作品・資料が多数展示され、学習の場・レクリエーションの場として、田原の歴史を紹介するシンボルとなっている。博物館入口の正面にある二ノ丸櫓では、吉胡貝塚、山崎遺跡、渥美古窯などの考古学資料や田原城関係の資料が展示されている。また、隣接する田原市民俗資料館では、江戸時代以降の庶民の暮らしを中心にした歴史、民俗、生活工芸資料などが展示されている。 田原まつり会館 田原の城下町文化を伝える山車や、市の無形民俗文化財の田原凧などを中心に、田原市の主なまつりの情景を再現・紹介する施設。田原祭りで披露される3輌のからくり山車のうち、2輌が常時展示されている。凧祭りに関する資料では、6.55×3.66メートルの大凧「熊金」をはじめ、武者絵・歌舞伎絵などが描かれた初凧や、けんか凧合戦の様子を表したジオラマなどを見学することができる。けんか凧のうなり骨(凧上部の竹でできた骨)を実際に手に取って振り回し、うなり音を出したり、凧糸の製作過程や、糸につけるナンキン(ガラスの粉末)がつくられる様子を見学できるコーナーも備えている。その他、展示品や資料、説明パネルで祭の歴史も紹介している。 田原のからくり山車 田原祭りの主役となる山車は3輌あり、新町(「應神天皇車」)・本町(「神功皇后車」)・萱町(「総代車」)が一輌ずつ保有している。田原の山車は、1757年(宝暦7年)8月に当時の本町内の上り町・横町・中町が申し合わせ、合同で田原藩の浅黄無紋の横幕・天幕を借用し車を仕立てたことが始まりと言われる。山車の種類は二層唐破風屋形(にそうからはふやかた)四輪の名古屋型と呼ばれる。これらのからくり山車は、1988年(昭和63年)田原市の有形民俗文化財に指定され、3輌のうち2輌が常時田原祭り会館に展示されている。 万葉の歌碑 『万葉集』巻1に、天武朝(7世紀後半)の皇族麻績王(おみのおおきみ)が罪を犯して伊良湖に流されたとき、土地の人々が気の毒に思って 「打麻を麻績王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります」(麻績王は漁師なのか、漁師でないのに伊良湖の島の海藻を刈っておられる。おいたわしいことだ。) と詠んだのに、麻績王が感傷して 「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す」(この命が惜しさに私は波にぬれて、この伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです) とこたえられた歌が載っている。都を追われさすらいの身となった麻績王の嘆きと、それを憐れむ里人の思いやりが潮騒の岬にふさわしい風情を奏でる、万葉集の名歌と言われている。現在伊良湖岬灯台の近くに「うつせみの」の歌碑が建立されている。 椰子の実記念碑 明治時代に民俗学者の柳田國男が伊良湖に滞在した際拾った椰子の実の話を、親友の島崎藤村に語ったところ、それが素材となって椰子の実の抒情詩「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ…」が生まれた、という逸話を綴った記念碑。藤村の「椰子の実」は、1936年(昭和11年)、NHKの国民歌謡(作曲・大仲寅二、唄・東海林太郎)として全国放送され有名となった。のちに柳田國男は、『故郷七十年拾遺』の中で、 「僕が二十一の頃だったか(中略)少し身体を悪くして三河に行って、渥美半島の突っ端の伊良湖に1ヶ月静養していたことがある。海岸を散策すると、椰子の実が流れて来るのを見つけることがある。(中略)東京へ帰ってから、そのころ島崎藤村が近所に住んでいたものだから、帰って来るなり直ぐわたしはその話をした。そしたら、「君、その話を僕に呉れ給えよ、誰にも云わずに呉れ給え」いうことになった。(中略)するとそれが、非常に吟じやすい歌になって、島崎君の新体詩というと、必ずそれが人の口の端に上るというようなことになってしまった」 と、当時の事情を明かしている。1961年(昭和36年)、旧渥美町の文化協会によって日出園地に「椰子の実」の詩碑が建てられた。そして1996年(平成8年)、大中寅二生誕100周年および「椰子の実」作曲60周年を記念して、藤村の詩碑と向かい合う形で大中寅二の「作曲記念碑」が建てられた。 糟谷磯丸(かすやいそまる) 「無筆の歌よみ」として知られる江戸時代末期の漁夫歌人。渥美半島の先端の村、現在の伊良湖町の貧しい漁師の家の長男として生まれた。31歳で父を亡くし、母も長い間病気で、30歳を過ぎるまで読み書きができなかった。しかし、母の病気全快を願い、伊良湖神社に日参するうちに参詣人の詠む和歌の不思議な響きに魅せられ、35歳にして歌の道を志した。磯丸の歌は素直で分かりやすく、“無造作の中に真がこもっている” として庶民の間でもてはやされた。なかでも「まじない歌」は有名で、磯丸に歌を詠んでもらうと願いがかなうという噂が広まり、家内安全・恋愛成就など人々の求めに応じ多くの歌を詠んでいる。恋路ヶ浜から伊良湖岬灯台まで続く遊歩道には磯丸が詠んだこれらの歌の歌碑が数多く建立されている。磯丸は1848年(嘉永元年)、生まれた日と同じ5月3日に85歳で世を去ったが、その死後、磯丸を慕う人々によって「磯丸霊神」の名を与えられ、神様としてまつられた。磯丸の生家に建てられた「磯丸霊神祠」は現在、「糟谷磯丸旧里」と刻まれた石碑と共に伊良湖神社境内に安置されている。
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歴史・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:01 UTC 版)
大島 (相撲) - 相撲の年寄名跡の一つ。大島部屋 - 相撲部屋の一つ。 大島城 - 信濃国伊奈郡(現・長野県下伊那郡松川町元大島)にあった城。 大島本 - 源氏物語の写本等。 大島紬 - 奄美群島特産の平織り絹布、および、その絹布で縫製した和服。 大島節 - 伊豆大島の民謡。 大島流 - 槍術の流派の一つ。 大島氏 - 日本の氏族。既存項目は「Category:大島氏」を参照のこと。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/30 02:14 UTC 版)
文化年間に津軽国よりカボチャの種子を持ち帰った山城国粟田村(現・京都市東山区粟田口)の農夫が愛宕郡鹿ヶ谷村(現・左京区鹿ヶ谷)の農家に分け栽培されるようになった。当初は菊座型であったが栽培のうちにヒョウタンのような形状となったといわれる。明治の中頃までは京都市内を代表するカボチャだったが、昭和に入ってからは生産性に優れた他品種へ転換され、作付面積は激減した。現在は洛北を中心に綾部市でブランド野菜として栽培、出荷されている。 左京区にある安楽寺では、毎年7月25日に「かぼちゃ供養」が行われ、このカボチャを供える。
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歴史・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/09/23 09:14 UTC 版)
コミジャが最初に言及されたのは12世紀のことで、城砦が港に築かれたのは1585年のことである。13世紀、ベネディクト会修道士によってマスターと呼ばれる聖ニコラス修道院が設立された。修道院の中心となるロマネスク建築の教会と半円形のアプスは13世紀以来のものである。14世紀から17世紀にかけての期間、大きな5つの身廊の教会が建てられている。中央の身廊は16世紀に遡り、大きなバロックの教会は1652年からのものである。2つの高い正方形の塔は元来の修道院の城壁のロマネスク建築を保っている。教会上の塔は1770年に鐘楼へ変わった。 聖母グサリツァ教会(Gusarica))は同じ大きさの3つの身廊が一つずつである教会で構成されている。それぞれ、内部のアーチでつながっている。もっとも古いものは真ん中の教会で16世紀以来のものである。両サイドの教会はそれぞれ17世紀と18世紀以来のものとなっている。この教会で特徴的なものは1670年からのバロックの祭壇とオルガンで、著名な17世紀からの銀の聖女ロザリーのレリーフである。 城砦教会である聖ロコ教会(Rocco)は1763年に建てられ、新教会は1756年に遡る。アール・ヌーヴォーの建物は20世紀に建築家A. Bezicの働きによって建てられるようになった。
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歴史・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/27 03:58 UTC 版)
かつてのオマハ族は馬を駆り、狩猟と略奪をおこなう典型的な平原部族で、冬場は土屋根のアース・ロッジ(小屋)に、そして夏にはティピーで暮らしていた。バッファローや鹿を狩り、農作物を栽培し、主な穀物は豆、トウモロコシ、カボチャなどである。女性は鍋を作り、バスケットを編み、そして獲物でしとめた動物の骨や木から用具を作った。 ホーカン・スーの言語を話し、オマハ族はスー族支族ダコタ族系に属していたカンサ族、クアポウ族、オーセージ族、ポンカ族の5つの諸部族のグループの一部族だった。 1500年頃、スー族と仲が悪くなり分離し、オマハ族はポンカ族とともに、オハイオ州、ミズーリ州及びミシシッピ川の合流域に移動、さらにアイオワ州に渡って行った。そののち、ニオブララ川河口でポンカ族と別れ、 ミズーリ川の上流域へ移動した。 1802年、白人がもたらした天然痘の流行により、部族の人口を大きく減らし、現在のネブラスカ州に移動。 1804年、ルイスとクラークの探検隊がオマハ族と会見。これを皮切りに白人入植者がオマハ族の土地を侵食していった。なおオマハ族の人々は一般に1850年代に彼らの土地を通ってユタ州へ移住したモルモン教徒と友好的な関係を確立している。 1854年にオマハ族が領土としていたミズーリ川流域のすべての土地は、アメリカ連邦政府に没収され、オマハ族はネブラスカ州東部の保留地(Reservation)へ強制移住させられ、現在に到る。彼らの保留地は近縁のポンカ族と密接しており、ポンカ族とは提携関係にある。現在のスー族とは良好な関係にあり、1960年代のインディアン権利回復要求運動「レッド・パワー」以降、共闘してワシントンやニューヨークへ抗議デモを行っている。 オマハ族は隣州のアイオワ州で、「インディアン・カジノ」のカジノマハ(CasinOmaha)を経営している。インディアン・カジノに反対の立場をとっているアイオワ州は、2009年7月1日に、このカジノマハを営業停止処分とした。現在、オマハ族はカジノ再開を要求して係争中である。
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歴史・文化
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「ブルクハウゼン (アルトエッティング)」の記事における「歴史・文化」の解説
ブルクハウゼン城(英語版)がザルツァッハ川に面した小高い山にそびえる。城砦の全幅は1,043 メートルと、ヨーロッパ最長となっている。
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歴史・文化
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琉球開闢神話に現れる霊山である。『中山世鑑』によると「安須森」とあり、琉球開闢の祖とされる阿摩美久(あまみく)が最初に創成した御嶽であるという。『おもろさうし』には、安須森に降臨した神を謡ったおもろがある。辺戸集落から望むと、頂上部から4つの峰が突出していて、それぞれ北から順に「イヘヤ」、「チザラ(シチヤラ嶽)」、「アフリ」、「シヌクシ(宜野久瀬嶽)」と名付けられている。また『琉球国由来記』によると、辺戸には「シチヤラ嶽」、「アフリ嶽」、「宜野久瀬嶽」の3つの御嶽が記され、そこで首里から派遣された使者が正月と9月に琉球王家の繁栄、五穀豊穣、航海の安全を願った。 アフリ嶽に君真物神が現る際に、「涼傘(リャンサン)が立つ」といわれる。「涼傘」は首里王府内で「アフリ」と呼ばれ、古くから最高神とされてきた君真物神の「傘」として、この神が出現する前ぶれといわれた。また国王が即位する際にも、この山に現れたという。アフリ嶽から流出する辺戸大川は、『琉球国由来記』によれば、神名は「アフリ川」とあり、この川から汲まれた水は「御水取り」という行事に用いられる。第二尚氏王統の尚真王時代から廃藩置県まで、毎年5月と12月に行われ、また水を汲む際にシチヤラ嶽で供物を捧げた。王府は使者を辺戸へ送り、国王と王子や聞得大君の長寿を祈願し、汲まれた水は首里へ運ばれた。琉球王国時代においては、首里城の元旦行事に「若水」として使用され、廃藩置県後には中城御殿へ届けられた。1998年(平成10年)に「御水取り」が55年ぶりに開催され、水が首里城へ送られた。 舜天王統最後の王とされる義本を葬ったと伝えられる墓が、辺戸岳の北麓に存在している。「辺戸玉陵」ともいわれ、明治初期に第二尚氏によって改修された。1983年(昭和58年)3月31日に、「義本王の墓」として国頭村指定文化財に指定された。シチヤラ嶽入口に、「寛永廿一年(1644年)」と刻印されたと思われる石灯籠が2基ある。設置理由は不明であるが、1609年に起きた薩摩藩の琉球侵略による戦死者を慰霊するために建立されたものではないかとも考えられる。 国道58号から望む 義本王の墓
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歴史・文化
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鼻煙壷の素材は様々なものがあって、たとえば金、銀、玉、瑪瑙、ガラス、陶器、象牙などで作らたものがある。鼻煙壷には装飾なども施されているので観賞の対象にもなった。だから日用品としての利用以外に美術品として収集されたケースもあった。鼻煙壷は中国で清の時代に流行したが、現在は日用品としてはあまり用いられていない。
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歴史文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 08:16 UTC 版)
古代中国で于田県はオアシス都市国家の扜弥王国(中国語版)があったとされ、紀元前60年に西域都護がおかれ中原王朝を統治していた。 于田県はシルクロードの重要な都市であり、中西文化、仏教、イスラム教と文明的に重要な交流地であり、世界三大金玉の一つである。 1004年前後に喀喇汗国が滅亡し、于闐国となった。 1986年に于闐(うてん)より改称された。
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