窯跡
窯跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 08:29 UTC 版)
過去の古い時期に構築された窯が、操業を終え、遺棄されたものを窯跡と呼ぶ。窯跡は考古学でいう遺跡(遺構)の一種であり、発掘調査を行って窯体構造や陶磁器片を分析することにより、窯業史・陶磁史をはじめとする歴史研究に役立てることができるため、重要な考古資料となっている。
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窯跡(A地点)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 05:50 UTC 版)
日の出山で創建期多賀城に使用されているのと同じ型の瓦が出土することは古くから知られ、すでに1954年には内藤政恒が「多賀城古瓦草創年代考」という論考を発表している。1969年、土地所有者が開墾のためにブルドーザーを入れて掘削したところ、大量の瓦が出土したため、工事を中止し、宮城県教育委員会が緊急に調査を行ったものである。 遺跡の範囲は東西1.5キロ、南北1キロに及び、窯跡は6地点に存在することがわかっている(A地点 - F地点と称す)。このうちA地点とC地点については発掘調査が実施され。F地点については磁器探査と試掘が行われている。他の3地点については開墾により原型を損なっているとみられ、本格的調査は実施されていない。上述の、1969年に調査が行われたのはA地点で、国の史跡に指定されたのはA地点のみである。 A地点は遺跡の東側で、丘陵の南西斜面に7基の地下式窖窯(あながま)が築かれている。うち北西端が1号窯で、以下、3号から8号までの番号が付されている(2号は欠番)。なお、調査時点で2号窯とされていたものは、凹地に黒色土と瓦片が堆積したもので、窯跡ではないことがわかった。 各窯は積石などの工作をせずに地山を素掘りして焚口、燃焼室、焼成室、煙道を造ったものである。燃焼室は平坦で、焼成室は緩斜面となるが、両者の間には明確な段差を設けず、焼成室内にも階段はない。8号窯のみ規模が小さいが、他の6基は、全長が5メートル強、幅が1メートル内外の規模である。1号窯と4号窯は前庭部に排水溝を設ける。3号窯は窯としての役目を終えた後、貯蔵場所として使用され、内部に平瓦が貯蔵されていた。8号窯は全長2.6メートルと小さく、この窯のみ、もっぱら須恵器を焼成していた(他の6基は瓦を主として一部須恵器も焼成)。
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窯跡(C・F地点)
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「日の出山瓦窯跡」の記事における「窯跡(C・F地点)」の解説
A地点以外で調査済みの窯跡の概要は以下のとおりである。 C地点は遺跡の中央部西寄りの丘陵南麓に位置し、窯跡7、竪穴式建物跡14が確認されている。窯跡は1基が半地下式であるほかは地下式である。 F地点は遺跡の中央部南寄りに位置する。東斜面に4、西斜面に3の窯跡があり、すべて地下式である。また西斜面には竪穴式建物跡5が確認されている。C・F地点で確認された竪穴式建物跡は、工房等の瓦製造関連施設とみられる。
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窯跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 01:09 UTC 版)
1979年の調査により、7基の窯跡が確認された。南西から北東へと伸びる丘陵の北側斜面には6基の窯跡があり、いずれも登窯である(東から西へ1号 - 6号窯)。さらに1号窯の東南25メートルの丘陵東端には上記の6つの窯とは構造の異なる平窯の7号窯がある。このうち、1979年の調査で全容が判明したのは第2・3・7窯である。 第2号窯は有階有段登窯で、一部削平されていたが、現存部の全長は4.5メートル、焼成部の幅は2メートル。床面の傾斜は平均40度である。階段の蹴込部分は大型の塼を並べ、上面は丸瓦と半截平瓦を敷きつめている。 第3号窯は有階有段登窯で7段に築造され、天井部を含め完存する。全長は5.4メートル、最大幅は1.75メートル。床面の傾斜は第2号窯よりゆるやかで平均17度である。階段の蹴込部分は大型の塼を並べ、上面は丸瓦と平瓦を敷きつめている。窯体の構築にも大型の塼を用いている。この窯跡からは、窯詰めしたときの状態のままで未焼成の瓦群が検出されている。何らかの事情で、焼成を行わないまま使用を中止したとみられ、稀有な事例である。 第7号窯は平面長方形で床面に傾斜のない平窯である。後世に削平を受けていて、遺存状況はよくない。 第2号窯が急傾斜で、段差が高く、焼成部が地下式であるなど古い形式を示すのに対し、第3号窯は傾斜がゆるやかで段差も小さく、平窯に近づいた形式となっている。このように、異なった形式の窯が併存するのが七尾瓦窯の特色である。 第1・4・5・6号窯については、1979年の調査ではトレンチで存在を確認するにとどまったが、このうち、第4・5・6号窯については、1990年の史跡環境整備事業にともなう調査によって、部分的にではあるが実態が明らかになっている(第1号窯は未調査)。1990年の調査は排水施設工事、擁壁及びフェンス設置工事にともない、遺構に影響を与えないために行ったもので、遺構保全のため、窯体の上面の検出でとどめている。 この調査で、第4・5・6号窯の規模は次のとおりであることがわかった。 第4号窯 - 全長6.3メートル、焼成部最大幅2.2メートル 第5号窯 - 全長5.5メートル、焼成部最大幅1.2メートル 第6号窯 - 全長5.8メートル、焼成部最大幅1.4メートル 第4号窯は平面が船形で、隣の第3号窯と似た構造であるとみられる。第5・6号窯は前庭部を共有しており、同時に操業していたことが明らかである。第1号窯は未調査であるが、七尾瓦窯の6基の登窯は、第1・2号、第3・4号、第5・6号がそれぞれ2基1単位で構築されたとみられ、互いに構造の異なる3種類の窯が2基ずつ構築されたとみられる。 窯跡の北側の史跡未指定地には、瓦製作の工房があったとみられる。1983年に当該地にある倉庫の建て替えにともない部分的な調査が行われ、人工的な溝が存在することが確認された。1984年から1985年にかけてあらためて本格的な調査が行われ、平均幅3メートル、深さメートルの「コ」の字形に屈曲する溝の存在が確認された。この溝は90度の角度で屈曲していることから、人工的に掘られたものであることは明らかである。また、多量の瓦の投棄も確認されている。この調査は遺構の展開状況を確認することが目的であり、明確な建物遺構は検出されなかったが、調査地には広範にわたって工房が存在したことは確実視されている。
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