栗栖野瓦窯跡の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/25 05:07 UTC 版)
栗栖野窯は木村捷三郎により1930年に発見され、1934年の京都府史蹟名勝地保存委員会による瓦窯2基の発掘調査を経て、国の史跡に指定された。しかし、その範囲は限られたものであり、窯は幡枝丘陵の「城山」(じやま)の南斜面一帯に築かれたが、宅地造成により、史跡指定地以外で人知れず姿を消した窯跡もある。 栗栖野瓦窯を最初に発見報告した木村捷三郎は、「栗栖野瓦屋」を分布上、福枝・西幡枝・南庄田の三地区に分けた。これらはいずれも丘陵裾の低い部分に立地しており、平地を挟んで向かい合う位置関係にある。現在、それぞれは栗栖野瓦窯跡・円通寺瓦窯跡・南ノ庄田瓦窯跡として周知の遺跡となっており、栗栖野瓦窯跡の一部は国の史跡に指定されている。栗栖野瓦窯跡は南ノ庄田瓦窯跡より北へ約200m進んだ位置にある。円通寺瓦窯跡は鞍馬街道の峠付近に位置し、南ノ庄田瓦窯跡から直線距離で約450m西方にある。栗栖野瓦窯跡が平安時代全時期を通して操業されているのに対し、南ノ庄田・円通寺瓦窯跡では主として平安時代後期の瓦が出土する。そのため、栗栖野瓦窯跡がその中核をなし、周囲の瓦窯は一時的に操業されたとみるのが一般的である。
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