栗栖野酒井党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:55 UTC 版)
丹波国多紀郡の豪族である丹波酒井氏の一族、栗栖野氏の頼重の嫡男として生まれる。生誕年については不明であるが、郷土史研究家の渡瀬忠夫氏は著書の中で信政は39歳で死没したと推定しており、天文六年(1537年)生まれを支持している。栗栖野氏は酒井孝信の三男、伊賀守彦次郎信綱が始まりで、酒井党の酒井三家(栗栖野、矢代、竹内)の一つだった。この当時、信綱は父孝信の所領をめぐって兄の貞信、甥の信経の三者で争っており、これが惣領家酒井三家の原形になっていったと考えられる。その後、争論は決着し、信綱は主殿保(真南条)分の大部分を得ることとなり、酒井惣領家家中での栗栖野氏の地位を確立し、矢代氏とともに他の庶流家との差別化を図っていくこととなる。以上のように、酒井氏は平安時代に土着して以来、早期から丹波有数の古参勢力として惣領家を中心に勢力を扶植していった。しかし、16世紀前半に入植してきた新興勢力波多野氏との抗争に敗れ、一時期勢力は衰減したものの、その傘下で再び勢力を取り戻すこととなる。また、明応元年(1492年)には、栗栖野(酒井)左衛門(信重)が庶流家の宮林氏に大芋分の領地を譲渡しており、さらには、高仙寺への土地の寄進に関しての『栗栖野信政等連署状』に署名するなどし、酒井党の中心的存在として他の酒井一族との連携を強化していった。
※この「栗栖野酒井党」の解説は、「酒井信政」の解説の一部です。
「栗栖野酒井党」を含む「酒井信政」の記事については、「酒井信政」の概要を参照ください。
- 栗栖野酒井党のページへのリンク