生誕年について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 07:25 UTC 版)
前項で生年を永正5年(1508年)としたが、その10年前の明応7年(1498年)とする説もあり、以下のことを踏まえればこちらの可能性が高い。 一つ目に、現実的に考えて、18年の生涯の中で息子(頼国)が生まれているというようには考え難く、生きた年数を28年とすればまだあり得るという考えである。 二つ目に、足利義稙から偏諱を授与された稙国に対して、叔父、すなわち父・高国の弟にあたる晴国、通政(のち輝政)が義稙の後に将軍となった義晴、義輝から偏諱の授与を受けていることである。将軍から偏諱を賜うのは、元服時に行って諱を確定する際が一般的であるため、この順序から言えば稙国の方が年長者と考えられる(甥が叔父より年上であることは珍しくはない)。晴国の生年は長年不詳とされてきたが、近年馬部隆弘が『後法成寺関白記』永正13年8月29日条にある「房州家督誕生」記述を晴国の誕生記事であると結論づけた。従って、稙国が死去した当時の晴国は僅か10歳でまだ元服を行っていなかったことになる。また、馬部は通政(輝政)を長府細川家が創作した架空の人物とも結論づけている。 前述の通り、永正5年(1508年)は義稙が復権した年であり、義稙が高国との確執により出奔した大永元年(1521年)までの間に偏諱の授与が行われたかどうかということになる。14歳という年齢は逆に元服には十分な年齢であり、これだけで考えれば永正5年(1508年)生誕説でも差し支えない。また、前述の通り生年を1498年とするならば、父の高国は当時14~15歳という事になる(高国は1484年生まれ)が、この歳で子供がいたとは考えにくい。いずれにせよ、明確にする史料はないため、謎のままである。
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