生誕地、幼少期の土地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)
『明智軍記』によると、生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる。少なくとも美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている。『続群書類従』本「明智系図」や「土岐文書」に見える明智氏の家系は、可児郡明智荘を伝領した形跡がない。光秀の父が土岐頼武に仕えたとしたら、光秀の生地は福光館(現・岐阜市福光東町)近傍か、玄宣の領地、おそらく頼尚所領譲状に半分知行と書かれた駄智村(現・土岐市駄知町)・細野村(現・土岐市鶴里町細野)ということになる。また、1525年に土岐頼武が敗れた際、光秀は越前国に逃れ、そこで幼少期を過ごした可能性が指摘されている。越前国における伝承によると、一乗谷周辺の栃泉町の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされ、同町内の小字「西畦」では光秀が薪割りをしたとの伝承も残る。 このほかに、近江国出生説もある。江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』には、光秀の2、3代前の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれ育ったと記述する。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀通称)と呼ばれてきた場所がある。光秀の初期活動は近江で確認され、多賀町説は簡単に除けられないと指摘されている。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。
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