生誕~ミュールハウゼン時代 (1685年-1708年)
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「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の記事における「生誕~ミュールハウゼン時代 (1685年-1708年)」の解説
1685年3月31日、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下、「バッハ」とする)は、アイゼナハの町楽師でありルター派の音楽家のバッハ家の一員であるヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末子として生まれた。アイゼナハ周辺にはバッハ一族80余名が生活しており、同姓同名の者もおり、そのことはバッハ史研究の難易度を上げている。 生誕日二日後に、幼児洗礼が聖ゲオルク教会(ドイツ語版)で行われ、ゴータの町楽師セバスティアン・ナーゲルと、アイゼナハの森林官ヨハン・ゲオルク・コッホの2人が代父を務めた。1692年、7歳の時にはこの教会に付属したラテン語学校に入学している。幼少時のバッハがどのように育ったか詳しいことは分かっていないが、恐らく父アンブロジウスの指導のもと楽器を演奏し始め、同教会では父の従兄ヨハン・クリストフ・バッハ(1642~1703)のオルガン演奏も聴いていたと思われる。 1694年5月には母エリザベートが死去し、父は再婚したもの翌年の1695年2月に死去した。その後、バッハは兄ヨハン・ヤーコプと共にオーアドルフの教会オルガニストを務めていた兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励み、クラヴィーア演奏の基礎もここで学んだ。パッヘルベルの弟子でもあった兄ヨハン・クリストフは自分の所有していた楽譜をバッハに見せなかったため、それを見たかったバッハは夜な夜な月明りの下で、その楽譜を盗み見て半年もかけて写譜した。最終的に、この写譜した曲集の存在は兄に知られてしまい没収されるが、この時期のバッハの音楽熱心な様子を表す逸話として有名である。 1700年にはオーアドルフの学校を退学して、同年3月15日に親友のゲオルク・エルトマン(1682-1736)と共にリューネブルクに移る。そこで、聖ミカエル教会付属学校の給費生となり、ボーイ・ソプラノとして朝課合唱隊の聖歌隊員に採用される。この合唱団の入団には高い音楽的能力が必要とされ、遠くのテューリンゲンやザクセンからも応募が来るほど入団が難しかったが、バッハは自身の優れた音楽的能力によって難なく合格したと思われる。入団当時バッハは既に15歳だったため入団からすぐに変声期を迎え、ボーイ・ソプラノとして歌うことは出来なくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラ等の楽器の演奏をすることで楽団の中で活躍していた。 同地リューネブルクの聖ヨハネ教会にはゲオルク・ベームが、少し離れたハンブルクには従兄のヨハン・エルンスト・バッハ(1683-1739)が、更に聖カタリナ教会にはヨハン・アダム・ラインケンがおり、どこまでかは定かでないが、彼らの音楽を聴いて自身の音楽の糧にしていったと思われる。 またバッハは、リューネブルクから少し南に位置するツェレにもしばしば赴き、そこの宮廷楽団の演奏を聴いていた。当時のツェレの領主であったゲオルク・ヴィルヘルム公は自身が若い頃にフランスに訪問した経験もあり、当時の宮廷楽団はほとんどがフランス人でまた楽譜もフランスからの直輸入に頼るなど、フランス文化の色が強かった。当時貧乏な学生であったバッハが宮廷楽団に出入りするのは本来困難なはずだったが、宮廷楽団の楽師を務めていたトーマ・ド・ラ・セルという人物の紹介により、宮廷楽団の演奏を聴くことが出来たとされている。 ミカエル学校には最上級の生徒として入学していたため、おそらく1702年の復活祭の前には卒業していたと思われている。金銭面的な余裕もなかったため、大学へは進学しなかったバッハは、同年8月にゴットフリート・クリストフ・グレーフェンハインの後任として募集していたハレ近郊のザンゲルハウゼン(英語版)のオルガン奏者に応募し優秀な成績は残したが、採用はされることはなかった。 1703年3月から半年間、領主のヴァイマル公ヴィルヘルム・エルンストの弟であるヨハン・エルンスト公の宮廷楽団に就職した。バッハはヴァイオリンを担当したが、ヨハン・エフラーの代役でオルガン演奏もこなした。同年6月、アルンシュタットの新教会(現在はバッハ教会(英語版)と呼ばれる)に新しいオルガンが設置された。その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、そのまま同年8月9日には同教会のオルガニストの地位を提示され、8月14日には契約が交された。また、演奏の他に聖歌隊の指導も任された 。この時期には二人の兄のために書かれた「カプリッチョ 変ロ長調『最愛なる兄の旅立ちに寄せて』 BWV992」と「カプリッチョ ホ長調『ヨハン・クリストフを讃えて』BWV993」等の作品がある。 1705年10月、バッハは4週間の休暇を取り、リューベックに旅行した。アルンシュタットからリューベックまでの約400kmを徒歩で向かったと言われる。そして当地の聖母マリア教会(英語版)のオルガニストを務めるディートリヒ・ブクステフーデの演奏に学んだ。当時68歳と高齢だったブクステフーデもバッハの才能を買い、自分の娘マリア・マルグレータとの結婚を条件に後継者になるよう持ちかけた。聖母マリア教会のオルガニストの地位は若いバッハにとって破格であったが、彼はブクステフーデの申し出を辞退した。マルグレータはバッハより10歳も年上の約30歳であり、2年前にもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・マッテゾンが付帯条件を聞いて後任を辞退している。 バッハがアルンシュタットに戻ったのは1706年1月末で、4週間の休暇に対し3か月以上も留守にしていた。オルガン演奏の代役は従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいたが、聖職会議は彼を叱責した。会議はさらに、ブクステフーデから受けた影響であろう「耳慣れない」音を演奏時に出すことや、聖歌隊に対する指導の不備を糾弾した。その後11月にはまた聖職会議に呼ばれ、合唱隊の中に見知らぬ娘を入れて歌わせたということも非難された。この娘は後に最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラであったとも考えられる。バッハは教会の上層にあるオルガン演奏席にも見知らぬ娘を招き入れて演奏したり、聖歌隊の音楽としては不適切な、当時としては前衛的な作品を作曲して演奏したりしたことも教会からの評価を下げた。 その頃、すでにバッハの能力は高く評価されていた。1706年12月に帝国の自由都市ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニスト、ヨハン・ゲオルク・アーレが死去し、後任の募集が行われ、バッハは1707年4月24日の復活祭の日に試験演奏を行った。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚が市参事会員であった縁もあり、バッハは応募し合格した。同年5月15日には聖ブラジウス教会との契約が交わされ、6月29日にはアルンシュタットを去り、ミュールハウゼンに移り住んだ。その報酬はアルンシュタット時代とさほど変わらないが、いくぶんか条件は良かった。同年、マリア・バルバラと結婚し、10月7日にアルンシュタット近くの村ドルンハイムで結婚式をとり行った 。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。 バッハの生活は決して楽なものではなく、常に良い条件の職場を探し求めていた。生活の足しにするために、短い曲を作曲してはそれを1曲3ターラー程度で売るという事もしていた。その一方で、契約した先々で様々な些細なトラブルも起こしていた。あるときは5つの仕事を同時に引き受けていたが、5つのうち4つでトラブルを抱えていた。
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