生誕~ミュールハウゼン時代とは? わかりやすく解説

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生誕~ミュールハウゼン時代 (1685年-1708年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:32 UTC 版)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の記事における「生誕~ミュールハウゼン時代 (1685年-1708年)」の解説

1685年3月31日ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下、「バッハ」とする)は、アイゼナハの町楽師でありルター派音楽家バッハ家一員であるヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟末子として生まれたアイゼナハ周辺にはバッハ一族80余名生活しており、同姓同名の者もおり、そのことバッハ研究難易度上げている。 生誕二日後に、幼児洗礼聖ゲオルク教会ドイツ語版)で行われゴータの町楽師セバスティアン・ナーゲルと、アイゼナハ森林官ヨハン・ゲオルク・コッホの2人代父務めた1692年7歳時にはこの教会付属したラテン語学校入学している。幼少時バッハどのように育ったか詳しいことは分かっていないが、恐らく父アンブロジウス指導のもと楽器演奏し始め、同教会では父の従兄ヨハン・クリストフ・バッハ(1642~1703)のオルガン演奏聴いていたと思われる1694年5月には母エリザベート死去し、父は再婚したもの翌年1695年2月死去したその後バッハは兄ヨハン・ヤーコプと共にオーアドルフ教会オルガニスト務めていた兄ヨハン・クリストフの家に引き取られ勉学励みクラヴィーア演奏基礎もここで学んだパッヘルベル弟子でもあった兄ヨハン・クリストフは自分所有していた楽譜バッハ見せなかったため、それを見たかったバッハ夜な夜な月明りの下で、その楽譜盗み見半年もかけて写譜した。最終的に、この写譜した曲集の存在は兄に知られてしまい没収されるが、この時期バッハ音楽熱心な様子を表す逸話として有名である。 1700年にはオーアドルフ学校退学して同年3月15日親友のゲオルク・エルトマン(1682-1736)と共にリューネブルクに移る。そこで、聖ミカエル教会付属学校給費生となり、ボーイ・ソプラノとして朝課合唱隊の聖歌隊員に採用される。この合唱団入団には高い音楽的能力が必要とされ、遠くテューリンゲンザクセンからも応募が来るほど入団難しかったが、バッハ自身優れた音楽的能力によって難なく合格した思われる入団当時バッハは既に15歳だったため入団からすぐに変声期迎えボーイ・ソプラノとして歌うことは出来なくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラ等の楽器演奏をすることで楽団の中で活躍していた。 同地リューネブルク聖ヨハネ教会にはゲオルク・ベームが、少し離れたハンブルクには従兄のヨハン・エルンスト・バッハ(1683-1739)が、更に聖カタリナ教会にはヨハン・アダム・ラインケンがおり、どこまでかは定かでないが、彼らの音楽聴いて自身音楽の糧にしていった思われる。 またバッハは、リューネブルクから少し南に位置するツェレにもしばしば赴き、そこの宮廷楽団演奏聴いていた。当時ツェレ領主であったゲオルク・ヴィルヘルム公は自身若い頃フランス訪問した経験もあり、当時宮廷楽団はほとんどがフランス人でまた楽譜フランスからの直輸入に頼るなど、フランス文化の色が強かった当時貧乏な学生であったバッハ宮廷楽団出入りするのは本来困難なはずだったが、宮廷楽団楽師務めていたトーマ・ド・ラ・セルという人物の紹介により、宮廷楽団演奏聴くことが出来たとされている。 ミカエル学校には最上級生徒として入学していたため、おそらく1702年復活祭前に卒業していたと思われている。金銭面的な余裕もなかったため、大学へは進学しなかったバッハは、同年8月にゴットフリート・クリストフ・グレーフェンハインの後任として募集していたハレ近郊のザンゲルハウゼン(英語版)のオルガン奏者応募し優秀な成績残したが、採用はされることはなかった。 1703年3月から半年間、領主ヴァイマル公ヴィルヘルム・エルンストの弟であるヨハン・エルンスト公宮廷楽団就職したバッハヴァイオリン担当したが、ヨハン・エフラーの代役オルガン演奏こなした同年6月アルンシュタット新教会(現在はバッハ教会英語版)と呼ばれる)に新しオルガン設置された。その試奏者選ばれバッハ優れた演奏披露しそのまま同年8月9日には同教会オルガニスト地位提示され8月14日には契約が交された。また、演奏の他に聖歌隊指導任された 。この時期には二人の兄のために書かれた「カプリッチョ 変ロ長調最愛なる兄の旅立ちに寄せて』 BWV992」と「カプリッチョ ホ長調『ヨハン・クリストフを讃えて』BWV993」等の作品がある。 1705年10月バッハは4週間休暇取りリューベック旅行したアルンシュタットからリューベックまでの約400kmを徒歩向かったと言われる。そして当地聖母マリア教会英語版)のオルガニスト務めディートリヒ・ブクステフーデ演奏学んだ当時68歳高齢だったブクステフーデバッハ才能を買い、自分の娘マリア・マルグレータとの結婚条件後継者になるよう持ちかけた。聖母マリア教会オルガニスト地位は若いバッハにとって破格であったが、彼はブクステフーデ申し出辞退した。マルグレータはバッハより10歳年上の約30歳であり、2年前にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルヨハン・マッテゾン付帯条件聞いて後任辞退している。 バッハアルンシュタット戻ったのは1706年1月末で、4週間休暇対し3か月以上も留守にしていた。オルガン演奏代役従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいたが、聖職会議は彼を叱責した。会議はさらに、ブクステフーデから受けた影響であろう耳慣れない」音を演奏時に出すことや、聖歌隊対す指導不備糾弾したその後11月にはまた聖職会議呼ばれ合唱隊の中に見知らぬ娘を入れて歌わせたということ非難された。この娘は後に最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラであったとも考えられるバッハ教会の上層にあるオルガン演奏席にも見知らぬ娘を招き入れて演奏したり、聖歌隊音楽としては不適切な、当時としては前衛的な作品作曲して演奏したりしたことも教会からの評価下げたその頃、すでにバッハ能力高く評価されていた。1706年12月帝国自由都市ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニスト、ヨハン・ゲオルク・アーレが死去し後任募集が行われ、バッハ1707年4月24日復活祭の日に試験演奏行ったミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚市参事会であった縁もあり、バッハ応募し合格した同年5月15日には聖ブラジウス教会との契約交わされ6月29日にはアルンシュタット去りミュールハウゼン移り住んだ。その報酬アルンシュタット時代とさほど変わらないが、いくぶん条件良かった同年、マリア・バルバラと結婚し10月7日アルンシュタット近くドルンハイムで結婚式をとり行った2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエル高名な音楽家になったバッハの生活は決し楽なものではなく、常に良い条件職場探し求めていた。生活の足しにするために、短い曲を作曲してはそれを1曲3ターラー程度で売るという事もしていた。その一方で契約した先々様々な些細なトラブル起こしていた。あるときは5つ仕事同時に引き受けていたが、5つのうち4つトラブル抱えていた。

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