せい‐しょく【聖職】
聖職者
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 00:40 UTC 版)
聖職者(せいしょくしゃ、希: κλῆρος、羅: clerus、英: clergy, cleric)とは、宗教上の聖職に就いている人[1]。(宗教的に)人々を導き、教える役割を果たしている人のことである[2]。対義語は、平信徒。
- ^ ルーテル教会、メソジスト監督教会などにおいて。位置付けは正教会/カトリック教会/聖公会などの主教/司教とは全く異なる。
- ^ コンスタンティノープル総主教庁系列などの一部の正教会では輔祭の敬称としても用いられる[18]。
- ^ a b かしこまった文書において、名前の後に敬称として付加する。
- ^ 英語圏では「Father」という敬称は比較的広く使われる[19]が、日本では稀で、修道司祭を神父と呼ぶケースにほぼ限られる[20][21]。同じ漢字文化圏でも、ハイ・チャーチの影響が強い大韓聖公会では「神父(신부)」という敬称が広く使われており[22]、「女性神父(여성 신부)」なる語さえある[23]。(ただし、韓国語では「婦」も「父」と同じ発音・同じハングル表記である。)
- ^ 概念および原語はプロテスタントの牧師(Pastor)とは異なり、一箇教会の司牧責任者たる司祭または主教のことを指す。また、大韓聖公会では「牧師(목사)」という語は用いられない[22]。
- ^ 日本基督教団などにおいて[24]。聖職位ではなくあくまで「資格」であり、概念は司祭(Priest)とは全く異なる。
- ^ プロテスタントにおける牧師は、正教会、カトリック教会、聖公会における司祭とは位置付けが異なる。
- ^ プロテスタントにおける執事・副牧師・補教師の位置付けは多様であるが、いずれにしても正教会における輔祭、カトリック教会における助祭、聖公会における執事とは、位置付けや役割が異なることが多い。特に長老制・会衆制を採る教会では、教職者ではない平信徒が執事に任ぜられる[17]。
- ^ 大辞泉
- ^ 広辞苑
- ^ 広辞苑 第五版 p.1470
- ^ a b c d e f g h i ヤン・ヴァン・ブラフト. “世界宗教の条件と課題”. 南山宗教文化研究所. 2022年3月28日閲覧。
- ^ 聖職者と修道士
- ^ キリスト教入門・火曜講座
- ^ 喜びと希望(Gaudium et spes)
- ^ 日本聖公会東京教区の"more"ページ
- ^ 聖アンデレ教会で皆さんをお迎えする聖職者たち
- ^ 新村出(編)『広辞苑 第五版』岩波書店、2004年、項目「聖職者」「牧師」頁。
- ^ Ο Επίσκοπος, οι Πρεσβύτεροι και οι Διάκονοι
- ^ 聖公会の出典:Anglicans Online | The Catechism or an Outline of the Faith
- ^ Clergy Etiquette
- ^ 正教会の出典:聖職者と修道士
- ^ カトリック東京大司教区 司祭とは
- ^ 日本聖公会 北関東教区 - 聖公会とは
- ^ a b 『キリスト教大事典』478頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版
- ^ “Etiquette and Protocol”. Greek Orthodox Archdiocese of America. 2009年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年3月21日閲覧。
- ^ “Clergy & Staff” (英語). St. Aidan's Episcopal Church. 2021年9月21日閲覧。
- ^ “信徒の働きを生かす英国の教会”. 日本聖公会 管区事務所 (2003年11月5日). 2021年9月21日閲覧。
- ^ “一つの修女会の発展的解消”. 日本聖公会 中部教区 (2014年7月1日). 2021年9月21日閲覧。
- ^ a b “성공회, 성직자, 호칭, 복장, 교회 성장(聖公会、聖職者、呼称、服、教会成長)”. 성공회 질문 답변(聖公会質問回答) (2001年1月21日). 2021年10月14日閲覧。
- ^ “26일 은퇴하는 ‘첫 여성사제’ 민병옥 신부(26日に引退する「初の女性司祭」閔丙玉神父)”. 서울신문(ソウル新聞) (2011年4月13日). 2021年10月14日閲覧。
- ^ “教規 -第5章- - 日本基督教団公式サイト”. 2021年3月6日閲覧。
聖職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/21 04:18 UTC 版)
「ウィリアム・ダニエル・コニベア」の記事における「聖職」の解説
ブリストルの著名な司教(bishop)ジョン・コニベア(John Conybeare、1692-1755)の孫であり、ビショップスゲイト(Bishopsgate)の教会主管者(rector)ウィリアム・コニベア(William Conybeare)の子供として、ロンドンに生まれる。ウェストミンスター・スクールで教育を受け、1805年にはオックスフォードのクライスト・チャーチに進学し、古典と数学で学士を取得し、3年後には修士へと進学する。 1814年に聖職位を得、バンベリ(Banbury)近郊のウォーディントン(Wardington)の牧師補(curate)になる。また、ブリストル近郊のブリスリントン(Brislington)での説教師職(lectureship)も引き受ける。その時期の1822年、ブリストル哲学協会(the Bristol Philosophical Institution)の設立にも携わる。また、その頃、英国の地層を学びにコニベアの元に来ていたフランス人のジャン=バティスト・エリー・ド・ボーモン(Jean-Baptiste Armand Elie de Beaumont)やアルマン・デュフレノア(Ours-Pierre-Armand Petit-Dufrénoy)の取り計らいで、フランス学士院の通信会員になる。 1823年から1836年まではグラモーガンシャーのサリー(Sully, Glamorganshire)で教会主管、1836年から1844年までアクスミンスター(Axminster)の教会主管者代理(vicar)を務めた。 1839年バンプトン・レクチャー(Bampton Lecture)の講師に任命され、ニカイア信条以前の初期キリスト教教父に関する論考"An Analytical Examination into the Character, Value, and Just Application of the Writings of the Christian Fathers During the Ante Nicene Period"を著す。1845年にランダフの主任司祭になる。
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聖職
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ピオ修道士は牛車で聖アッシジのフランチェスコ修道院に赴いた。そこで聖職につくための6年間の学習を始め、成長期を教団の中で過ごした。1904年1月に仮誓願を立てた後、カンポバッソ県サンテリーア・ア・ピアニージの後期中等学校に入学、その後サン・マルコ・ラ・カートラの学校で哲学を修め、フォッジャ県のセッラカプリオーラで神学を学んだ。1907年1月27日に終生誓願を立てる。1910年8月10日、ピオ神父は、ベネヴェントの大聖堂で大司教から司祭に叙階され、同月14日、天使の聖マリア教区教会で初ミサを捧げた。 1910年9月7日、ピオ神父が祈りを捧げていると、イエスと聖母マリアが現れて、神父に聖痕を与えた。医者は当惑し、その傷を恥ずかしく思った神父が主に祈ると、傷は治癒した。1911年10月末、ヴェナフロに派遣される。同年11月28日、神父の親友ドレ・アゴスティーノは、医者からピオ神父の病状が思わしくないことを知らされる。45度の高熱で体温計が壊れてしまうほどだった。神父は肺炎を患っており、健康状態が不安定なので、カプチン修道会士を続けることを条件に、1916年前半までピエトレルチーナの家族の元で過ごすことが許された。故郷に戻ったピオ神父はそこで人々の為にミサをあげ、学校で教鞭をとった。 1916年9月4日, ピオ神父はサン・ジョヴァンニ・ロトンドのガルガノ山にある農村伝導教団・聖母マリアの恩寵カプチン会修道院(Our Lady of Grace Capuchin Friary)で活動するように命じられた。当時その修道院の修道士はピオ神父を含め7人だった。兵役を除いて、ピオ神父は生涯のほとんどをサン・ジョヴァンニ・ロトンドで暮らすことになる。熱心なクリスチャンとして黙想を重んじていたピオ神父は、「本の研究を通して人は神を捜し、黙想によって人は神を見出す。」と語った。片時も神父はロザリオを手放すことはなかった。「ロザリオは武器だ。祈りは神の心を開く鍵だ。」(聖ピオ神父) 第一次世界大戦が始まった時、この修道院から4人の修道士が兵役に選ばれた。当時のピオ神父は、神学校で教師を勤める傍ら、霊的指導者として働いていた。もう一人の修道士が徴兵されたとき、ピオ神父はその代理として修道院を統括することになったが、1917年8月にピオ神父も徴兵された。イタリア医療隊第100中隊第4小隊に配属されたものの、健康がすぐれず、10月中旬から1918年3月まで入院した。退院後はサン・ジョヴァンニ・ロトンドに戻り、ピエトレルチーナのサンタマリア・デッリ・アンジェリ(天使の聖マリア教会)で働くよう命じられた。後に奇跡の修道者としての評判が高まると、サン・ジョヴァンニ・ロトンドの修道院に戻された。兵役は合計すると182日だった。 霊的指導者としてピオ神父は、多くの人々を霊的な子と考え、霊的な導きを与えた。ピオ神父による霊的成長のための5つのルールとは即ち、毎週の懺悔, 毎日の聖体拝領, 霊的読書, 黙想、良心の糾明だった。 ピオ神父は、懺悔を毎週することは、部屋の掃除を毎週するのと同じことだと例えていた。そして1日に2度の黙想と自省の実行を勧めていた。朝、1日に向き合う準備として1度、そして、夜に反省としてもう1度。 神学の実際的な応用についてのアドバイスは、神父の有名な言葉にほぼ要約されている。“Pray, hope, and don't worry.”(祈りなさい、希望を持ちなさい、そして心配しないでください。)あらゆる事物に神の働きを認めて、何にもまして神の意志に従って行動することを望むように、神父はキリスト教徒に説いた。
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「聖職」の例文・使い方・用例・文例
- 聖職につく
- 彼は卓越した聖職者だった。
- 聖職者としての務めを果たす
- 私は最も大きな罪、聖職売買を犯しました。
- 聖職者は私たちの息子に洗礼を施した。
- 聖職者は人生の落伍者の方に味方して、勝利者を説得し、歩み寄らせることを生業としているようにおもえる。
- 女王の呪文にかかった聖職者達。
- マヤの聖職者たちは天文学をよく身につけていた。
- その聖職者は人前では真面目なふりをする。
- ある伝説によればそれはある聖職者の名からきている。
- 彼は聖職についた.
- 聖職につきたいという欲求をもつ.
- 聖職につく.
- 聖職者たちはその計画に反対である.
- 聖職者用カラー, ローマンカラー 《堅くて細い帯状の白カラー》.
- 法[聖職]服.
- 彼の父は(前から)彼を聖職につかす予定[つもり]だった.
- 彼はやがて聖職につく身[運命]であった.
- 聖職者[牧師]になる.
- 聖職者を禄(ろく)付きの牧師に就任させる.
聖職と同じ種類の言葉
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