聖職叙任権の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「聖職叙任権の問題」の解説
グレゴリウス改革の最も重要な課題は、叙任権闘争についてであった。当時聖職叙任権については法的に明確な問題が存在していた。原始教会制では司教は信徒によって選ばれており、それは3世紀のキプリアヌスの『カトリック教会統一論(De catholicae ecclesiae unitate)』に明らかである。こうして信徒に選ばれた司教はほかの司教から聖別されて初めて職務につくことができた。教皇レオ1世の445年の書簡でも司教は信徒の選挙によるべきという原則が述べられている。535年のクレルモン公会議は司教は首都大司教の同意の下に聖職者と信徒の選挙によって選ばれると規定した。この教会法上の規定はグレゴリウス7世の時代まで存続していた。しかし実際上は世俗の権力者による司教選挙への介入が公然と行われていた。すでにメロヴィング朝時代、クロタール2世治下のパリ公会議では司教の職務につくには王の承認が必要だという文言が加えられた。カロリング朝時代に入ると王が事実上の司教の選出者となり、民衆は歓呼によってこれを承認するという形態に変わった。10世紀にはドイツでもイタリアでも司教の選任は王によって行われるのが常態化したが、フランスでは王の権力が衰えたために、王に加えて諸侯が司教の選任を行うことも増えたせいで、王が選任する司教座と諸侯が選任する司教座の区別が生まれた。 結果として司教は世俗権力者に忠誠宣誓を行い、また王はあたかも司教に宗教的権力を与えているような状況となり、教会法上問題であるばかりでなく、信仰上の宗教的権威にも影響力を行使していることは道徳的にも問題とされた。司教は信徒の魂の死後の救済のために信徒の日常生活を教え導く者であったからである。
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