聖職者となる:1956-1966
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:32 UTC 版)
「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「聖職者となる:1956-1966」の解説
1953年、極右の国民党政府はアパルトヘイト体制を盤石にする手段として、バントゥー教育法を導入した。ツツ夫妻はこの改革を嫌い、教職を辞めることを決めた。ハドルストンの助力を得て、ツツは教師を辞職して聖公会の司祭(priest)になった。1956年1月、叙階候補者組合(Ordinands Guild)へのツツの参加申請は、彼が債務を抱えていたことから拒否された。この債務は富裕な実業家であるハリー・オッペンハイマーが肩代わりして支払った。ツツはヨハネスブルクのロゼッテンヴル(英語版)の聖ピーター神学校(英語版)(St Peter's Theological College)に入ることを認められた。この学校は聖公会のCommunity of the Resurrectionによって運営されていた。この学校には居住区があり、ツツは妻が看護師の訓練でセククネランド(英語版)に行っている間、ここに住んでいた。また、子供たちはツツの両親と共にマンシーヴルに住んだ。1960年8月、彼の妻はもう1人の娘、ナオミ(Naomi)を生んだ。 この大学で、ツツは聖書、聖公会の教義、教会史、そしてキリスト教の倫理を学んだ。ここの教授であるゴッドフリー・ポーソン(英語版)は、ツツは「格別の知識と叡智を持ち、極めて勤勉である。そして自惚れを見せることなく、人々とよく交わり人気がある...彼は明らかにリーダーシップに恵まれていた。」と書いている。ツツはキリスト教とイスラーム教についての議論によって、大主教の年次論文賞を受賞した。彼が大学の日々を過ごす間に、南アフリカにおける反アパルトヘイト活動は激化し、付随してこれに対する政府の弾圧も激しくなっていった。1960年3月にはシャープビルの虐殺の結果、数百人の死傷者が出ていた。ツツと彼の他の研修生たちは、この反アパルトヘイト活動を支援するために動くことはなかった。彼は後に「私たちはある意味で非政治的な一団だった。」と記している。 1960年12月、エドワード・パゲット(英語版)はツツを聖メアリー大聖堂(英語版)の聖公会司祭に任命した。ツツはその後、ベノニの聖アルバン教区の司祭補補佐(assistant curate)に任命され、そこで妻と子供たちに再会した。彼らは改装したガレージに住んでいた。ツツは1か月に72.50ランドの収入を得たが、それは白人の同格者たちの収入の3分の2であった。1962年、ツツはトコザ(英語版)の聖フィリップ教会(St Philip's Church)に移り、そこで集会担当となり、司祭の使命に対する情熱を育んだ。南アフリカの白人支配の中で、聖公会創設者たちの多くは、より多くの土着のアフリカ人が教会の権限を持った地位に必要であると感じていた。これを支援するアルフレッド・スタブス(英語版)は、ツツにイギリスのキングスカレッジ(KCL)で神学教師としての訓練を受けさせることを提案した。国際宣教師協会(International Missionary Council)の神学教育基金(Theological Education Fund:TEF)によって費用が確保され、政府はツツにイギリスへの移動許可を与えることに合意した。 キングスカレッジの神学部で、ツツはデニス・ナインハム(英語版)、クリストファー・エヴァンズ(英語版)、シドニー・エヴァンズ(英語版)、ジェフリー・パリンダー(英語版)、そしてエリック・マスコール(英語版)のような神学者の下で学んだ。ロンドンでツツの一家はアパルトヘイトと、南アフリカのパス法に制約されない自由な生活の経験に感銘を受け、後に「イングランドにはレイシズムがある。だが、我々はそれに晒されていない。」と書き記している。一家はゴールダーズ・グリーン(英語版)の聖アルバン殉教者教会(the Church of St Alban the Martyr)裏手にある司祭補(curate)の共同住宅(flat)に移り住んだ。彼らはツツが日曜礼拝を手伝うという条件で家賃を免除してもらうことができ、これを通じて初めて白人の信徒に奉仕をした。この共同住宅で1963年に娘のムポ・アンドレア(Mpho Andrea)が生まれた。ツツは優秀な成績を修め、指導教員から優等学位(英語版)に変更するよう勧められた。そのため彼は優等学位に必要なヘブライ語も学んだ。 学士の修了が近づくにつれ、彼はTEFの奨学金を得ることができたため修士号を取得することに決めた。彼は1965年10月から1966年9月までで修士の学位を取得した。修士論文は西アフリカにおけるイスラームを題材にしたものだった。この時期、一家はゴールダーズ・グリーンからサリーのブレッチングリー(英語版)に移り、ツツは聖メアリー教会の司祭補補佐(assistant curate)として働いた。この村で、彼は彼の所属する聖公会の教区員と地元のローマ・カトリックおよびメソジストのコミュニティの協力を奨励した。ロンドンでの日々は、ツツの白人に対する敵意と人種的劣等感を捨てさり、白人に従属する習慣を乗り越えるための一助となった。
※この「聖職者となる:1956-1966」の解説は、「デズモンド・ムピロ・ツツ」の解説の一部です。
「聖職者となる:1956-1966」を含む「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事については、「デズモンド・ムピロ・ツツ」の概要を参照ください。
- 聖職者となる:1956-1966のページへのリンク