じょにんけんとうそう 【叙任権闘争】
叙任権闘争
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叙任権闘争(じょにんけんとうそう、独: Investiturstreit)は、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で司教や修道院長の任命権(聖職叙任権)をめぐって行った争いのこと[1]。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “聖職叙任権闘争”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年2月2日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “ウォルムス協約”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年2月2日閲覧。
- 1 叙任権闘争とは
- 2 叙任権闘争の概要
- 3 関連項目
叙任権闘争
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ザリエル朝の歴代皇帝も帝国教会政策を行い、皇帝権の強化を推し進めていった。一方で皇帝と結びついた教会組織も、土地の寄進などを通じて徐々に勢力を拡大させた。こうした中、教会組織が世俗権力の統制下におかれることを批判し、教会の純化を図る改革運動が、フランスのクリュニー修道院などで高まった。 歴代皇帝は真摯にキリスト教世界の指導者として振る舞い、実際には聖職叙任もおおむね適切なものであった。しかし、教会への影響力強化を図った教皇グレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任自体を聖職売買とみなし、聖職叙任権を手中に収めようとしたのである。その点で、叙任権闘争は単なる宗教問題にとどまらず、いわば皇帝が育てた果実を教皇が摘み取ろうとした権力闘争としての性格も有した。 叙任権闘争の趨勢を決める上で重要な役割を果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった。皇帝権強化による自らの権力低下を懸念した諸侯は、皇帝を牽制するためローマ教皇の支持に回った。こうして皇帝の地位が脅かされたハインリヒ4世は、教皇に対する謝罪を余儀なくされる(カノッサの屈辱)。さらに十字軍運動も開始され、第1回十字軍の軍勢が聖地を奪ってエルサレム王国を建国し、ローマ教皇の威光がますます高まった。こうした中、ハインリヒ4世の息子で次帝のハインリヒ5世が、ローマ教皇とヴォルムス協約を結び、叙任権闘争はひとまず終結した。 この協約で皇帝は叙任権は失ったものの、教会財産を封じる権利は確保された。そのため、世俗君主としての皇帝権は、ほとんど揺らいでいない。しかしながら、長期に渡る教皇との対立によって、理念としての皇帝権が深く傷つけられたのであった。こうして皇帝権は弱体化していき、皇帝の統制が緩む中で各地の領邦君主が自らの所領支配の強化に専念しはじめた。のちの領邦国家体制の萌芽はこの頃に見いだされる。
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叙任権闘争
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詳細は「叙任権闘争」、「カノッサの屈辱」、および「ヴォルムス協約」を参照 ハインリヒ4世は黒帝から受け継ぐはずだった王権を追い求め、教会と争って破滅した。歴代皇帝の教会への介入は、教会の堕落を食い止めるという正当性があった。教会が黒帝に教皇の叙任権まで握られたのは自業自得であった。しかし傲慢なハインリヒ4世は改革派が教会内に台頭している状態で教皇と正面から対立してしまった。その結果、皇帝は教会の守護者としての権威、神権的帝権という取り返しがつかないものを失った。 ハインリヒ4世はわずか5歳でローマ王となったため、治世当初は母アグネスが摂政となった。しかし1062年、12歳になった王はケルン大司教やバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムを中心とした諸侯に誘拐されてしまう。誘拐した諸侯の間でも権力闘争が続き、幼主は諸侯たちの政争の具となる。多感な時期に放置された少年王はわがままで頑固な性格となってしまう。1065年に15歳で成人した王は王権の強化を目指して諸侯と対立した。自分をないがしろにした諸侯への復讐である。まず自分の後見人ということになっていたハンブルク司教アダルベルトを追放し、バイエルン公オットーからも公位を剥奪した。その後、父の黒帝が作ったザクセンの王室直轄地を取り戻すために努力したが、出身地のザクセンに戻っていたオットーを中心にザクセン貴族は反乱を起こした。1073年に始まったザクセン戦争は、1075年に国王側の快勝に終わって王権は復活したかに見えた。 一方、教会ではクリュニー修道会改革派が台頭していた。教皇グレゴリウス7世は世俗権力からの脱却と聖職者の綱紀粛正を目指していた(グレゴリウス改革)。そしてローマ教皇庁は南ドイツ諸侯を通してザクセン貴族と繋がっていた。1075年、教皇は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。王は反発し、ミラノなどの諸都市で既存の司教に対して自分の息のかかった司祭を対立司教に立てるなど、教皇に対して露骨に挑戦した。これは教会の堕落とは関係がない単なる政治的行為であった。ローマ王とローマ教皇は激しく争い、王は不倫の醜聞を元に教皇の廃位を宣言するが、教皇も王を破門した。 強権的な王を嫌うドイツ諸侯はこれに喜び、破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議した。王は窮地に陥り、政治的支持を失っていることに気づかされた。そして1077年、北イタリアのカノッサで教皇に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。教皇はここで赦してもいずれ反撃されることは理解していたが、高潔な聖職者を志す立場上、破門を解かざるを得なかった。破門は口実に過ぎなかった諸侯は国王の姉婿でシュヴァーベン公のルドルフ (en) を対立王に立ててなおも抵抗し、教皇も支持した。しかし1080年10月15日、エルスターの戦いで王はついに勝利を収めてルドルフを戦死させた。シュヴァーベン公位は王の娘婿であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ1世に与えられた。教皇による再度の破門は意味を成さず、王はイタリアへ遠征してイタリア王としても戴冠した。4年に及ぶ戦いの末に教皇はローマから追い出された。王は自ら立てた対立教皇クレメンス3世によって33歳で皇帝として戴冠された。教皇グレゴリウス7世は亡命地のサレルノで失意の内に死去した。 それでも教皇庁は屈服しなかった。外交の名手である教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更に1093年には皇帝の長男コンラートをも寝返らせた。なお、ウルバヌス2世は第一回十字軍の派遣を呼びかけて名演説を行った人物としても有名だが、帝国はこの有様であったので十字軍には不参加である。皇帝は1098年にコンラートを廃嫡して12歳の次男を後継者としてローマ王に選出させた。ハインリヒ5世である。しかし、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み1105年に父を捕らえて幽閉してしまう。皇帝は脱出して息子と戦うが、翌1106年に55歳で死去した。父の死去時、ハインリヒ5世は19歳であった。 ハインリヒ5世はその治世で叙任権闘争を終結させた。とは言え、なかなかスムーズにはいかなかった。王は1110年よりローマ遠征を決行し、一旦は国王有利のポンテ・マンモロ協約を結んだ。このとき、王は25歳前後で皇帝に戴冠された。しかしローマ教会はドイツに引上げた皇帝をすぐさま破門。父と同じくザクセンの反抗勢力に苦しめられた皇帝は、1122年に教皇カリストゥス2世との間でヴォルムス協約を成立させた。皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、領土の授封権のみを留めるという内容で、抗争は皇帝の敗北で終わった。実のところ叙任権放棄自体は名目のみであったが、教会領は帝国権威の従属物ではなくなり、徐々に帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる。 1125年、ハインリヒ5世は38歳で嫡子無く死去し、ザーリアー朝は断絶した。国王選挙が行われ、ザーリアー朝の宿敵であるザクセン公ロタールが50歳でドイツ王に選出されてズップリンブルク朝を開いた(ロタール3世)。ハインリヒ5世は協力的であった甥でホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒ2世を後継者にと望んだが、かなわなかった。
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