じょにんけんとうそう 【叙任権闘争】
叙任権闘争
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叙任権闘争(じょにんけんとうそう、独: Investiturstreit)は、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で司教や修道院長の任命権(聖職叙任権)をめぐって行った争いのこと[1]。
背景
西欧では古代末期以来、私領に建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていったが、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権力が強大化していくとその地域の司教の選出に対しても影響力をおよぼすようになっていった。
これは少なからぬ教会財産の管理権を握ることと直結していたので世俗権力にとっても重要であった。中世に入ると、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが頻発するようになっていった。
特にローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くしていくことで、教皇選出においてまで影響力を持つに至った。しかし、俗権による叙任権のコントロールはシモニア(聖職売買)や聖職者の堕落という事態を招く一因ともなった。
10世紀にブルグント王国に創立されたクリュニー修道院に対する俗権からの影響力を否定した改革運動や、俗権による叙任を否定した教皇レオ9世、聖職者の綱紀粛正をはかった教皇グレゴリウス7世による教会改革は、教会に叙任権を取り戻そうという流れを生んでいった。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる争いが行われるようになった。
展開
カノッサの屈辱

グレゴリウス7世は教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し、1076年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。それを受けドイツ諸侯たちは、ザリエル朝のもとで王権・帝権の強化が進んだことに懸念を抱いていたこともあり、ハインリヒの帝位を否定する動きをみせた。こうして翌1077年、自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に贖罪した(カノッサの屈辱)。その後、勢力を立て直したハインリヒ4世は軍事力を行使し、グレゴリウス7世をローマから逃亡させるに至った。そして両者の死後においても、皇帝と教皇の争いは一進一退であり、何らかの妥協点を定めることは困難に見えた。
「聖なる世界」「俗なる世界」
叙任権闘争の最中、シャルトル司教であるイーヴォによって、叙任権闘争に対する一種の妥協点が提示された。それは、教会が有している権力・権威はスピリチュアリア(宗教的なもの、不可視なもの)とテンポラリア(世俗的なもの、可視的なもの(土地とか財産など))の二つに分けられるという考え方である。これにより、これまでの聖俗の未分化、混然としていた世界が観念的に二分され、皇帝と教皇の棲み分け可能な世界として把握されるようになった。上記の表現を用いれば、皇帝がテンポラリアなもの、教皇がスピリチュアリアな教会の権利をおさえる、ということになる。
ヴォルムス協約
幾度か皇帝側と教皇側の交渉が設けられたものの、両者の間での微妙な駆け引きが続いた。しかし、ハインリヒ4世の後を継いだハインリヒ5世は、ドイツ内での勢力基盤が安定しなかったこともあり、この叙任権闘争の決着を急いだ。最終的には、1122年に結ばれたヴォルムス協約において、聖職叙任権は教皇が有するが、教会の土地や財産などの世俗的な権利は王が授封するという妥協が成立し、一応の解決へと至った[2]。
脚注
関連項目
外部リンク
叙任権闘争
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ザリエル朝の歴代皇帝も帝国教会政策を行い、皇帝権の強化を推し進めていった。一方で皇帝と結びついた教会組織も、土地の寄進などを通じて徐々に勢力を拡大させた。こうした中、教会組織が世俗権力の統制下におかれることを批判し、教会の純化を図る改革運動が、フランスのクリュニー修道院などで高まった。 歴代皇帝は真摯にキリスト教世界の指導者として振る舞い、実際には聖職叙任もおおむね適切なものであった。しかし、教会への影響力強化を図った教皇グレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任自体を聖職売買とみなし、聖職叙任権を手中に収めようとしたのである。その点で、叙任権闘争は単なる宗教問題にとどまらず、いわば皇帝が育てた果実を教皇が摘み取ろうとした権力闘争としての性格も有した。 叙任権闘争の趨勢を決める上で重要な役割を果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった。皇帝権強化による自らの権力低下を懸念した諸侯は、皇帝を牽制するためローマ教皇の支持に回った。こうして皇帝の地位が脅かされたハインリヒ4世は、教皇に対する謝罪を余儀なくされる(カノッサの屈辱)。さらに十字軍運動も開始され、第1回十字軍の軍勢が聖地を奪ってエルサレム王国を建国し、ローマ教皇の威光がますます高まった。こうした中、ハインリヒ4世の息子で次帝のハインリヒ5世が、ローマ教皇とヴォルムス協約を結び、叙任権闘争はひとまず終結した。 この協約で皇帝は叙任権は失ったものの、教会財産を封じる権利は確保された。そのため、世俗君主としての皇帝権は、ほとんど揺らいでいない。しかしながら、長期に渡る教皇との対立によって、理念としての皇帝権が深く傷つけられたのであった。こうして皇帝権は弱体化していき、皇帝の統制が緩む中で各地の領邦君主が自らの所領支配の強化に専念しはじめた。のちの領邦国家体制の萌芽はこの頃に見いだされる。
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