ドイツ‐のうみんせんそう〔‐ノウミンセンサウ〕【ドイツ農民戦争】
ドイツ農民戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/06/17 02:52 UTC 版)
|
|
この記事はドイツ語版、英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2025年2月)
翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
|
|
| ドイツ農民戦争 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 宗教改革中 | |||||||
ドイツ農民戦争を時系列で表した地図 薄灰色の部分は、ドイツ農民戦争以前の反乱地域を表す。1524年の反乱は赤で示した地域、すなわちミュールハウゼン、フォルフハイム、ならびに現在のドイツ南西部を含む小規模な範囲で起こった。1525年3月20日までに反乱は特に南部で東に向かって広がり(薄赤)、1525年3月と4月の反乱は北に向かって一気に広がった(茶色)。スイスも反乱の中にあった。1525年4月30日以降の反乱は南東へすなわち現在のオーストリアへ向かっている。白い×印は主な戦闘が起こったところ。実線は神聖ローマ帝国の国境、点線は2003年時点のドイツの国境 |
|||||||
|
|||||||
| 衝突した勢力 | |||||||
| 農民軍(Peasant Army) | シュヴァーベン同盟 | ||||||
| 指揮官 | |||||||
| トマス・ミュンツァー † ハンス・ミュラー † ヴェンデル・ヒプラー † ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン |
en:Georg, Truchsess von Waldburg | ||||||
| 戦力 | |||||||
| 300,000 | |||||||
| 被害者数 | |||||||
| >100,000 | |||||||
| プロテスタント宗教改革 |
|
ドイツ農民戦争(ドイツのうみんせんそう、独: Deutscher Bauernkrieg, 英: German Peasants' War)は1524年、主にドイツ南部・中部の農民が起こした大規模な反乱。
概要
この反乱の代表的指導者はトマス・ミュンツァーであったが、次第に急進化し社会変革を掲げるようになった。そのため社会制度に対して保守的なマルティン・ルターは始めこの反乱を支持していたものの、鎮圧の側に回り、反乱は最終的に鎮圧された。このためこの地方の農民からルター派は支持を失い、以後カトリックが主流となる(→文化闘争)。
一方ルターが保守的であることを知った領主階級はカトリック教会を通じて支配体制を強化しようとするカール5世への対抗の必要上、ルター派を支持するようになった。
原因
歴史家たちは、この反乱の性質や原因について見解が分かれている。地代の上昇に起因するものとする説、ルターを中心とした新たな宗教論争に由来するものとする説、裕福になった一部の農民層が自らの財産や権利の喪失を危惧し、それらを法的・社会的・宗教的秩序の中に組み込もうとした結果であるとする説、あるいは農民たちが近代化・中央集権化を進める国家の形成に反発したとする説などが存在する。
地代の上昇、農奴制の強化、共有地へのアクセス制限
貴族たちは1440年から1460年にかけての一連の都市戦争(Cities Wars)で都市と農民を打ち破り、その後、積極的に地代を引き上げ始めた。これを実現するため、彼らは農民に対する支配を強化し、農奴制の束縛を強めるとともに、農民が家畜の放牧に必要としていた共有地(コモンズ)への利用を制限した。[1]
農民戦争の過程で、各地の農民集団は「条項(Articles)」と呼ばれる要求書を提出した。数百に及ぶこれらの条項を分析した研究によれば、「農民の要求書の90%が農奴制を批判し」、81%が共有地利用への制限を問題視し、72%が「地代の引き下げ」を要求していた。[2] これら三つの相互に密接に結びついた問題が、反乱の主要な原因であった。
1525年に農民と都市の同盟勢力を打ち破った後も、領主たちは地代の引き上げを続けた。その結果、1570年代までには農民は収穫の60〜80%を地代や債務返済に充てなければならなくなった。この持続不可能な負担により、農民は自分自身や家畜を十分に養うことができず、また土壌への施肥も行えなくなった。その結果、穀物収量は減少し、栄養失調や飢饉が広がり、ペスト再流行の要因ともなった。社会的緊張はあらゆる階層で高まり、魔女狩りや度重なる戦争の発生を招いた。さらに、戦費のための課税と莫大な負債が経済を圧迫し、最終的には三十年戦争へと至る全般的な崩壊をもたらした。三十年戦争は、1525年における農民敗北の避けられない帰結であったとされる。一方、イングランドの農民は農奴制から解放され、農業生産の余剰を生み出したことで、後のイングランドの世界的な台頭を支えることとなった。[3]
繁栄への脅威
ある見解によれば、ドイツ農民戦争の起源は、それ以前の数十年間に生じた農業および経済の活性化によって形成された特異な権力関係にあった。15世紀後半には労働力不足が発生し、農民はより高い賃金で労働力を提供できるようになった。また、食料や物資の不足によって、農産物も高値で販売できた。その結果、一部の農民、とりわけ自由保有地(allodial land)に関する負担が少なかった農民は、相当な経済的・社会的・法的利益を獲得することができた。[4]
こうした農民たちはさらなる利益を求めるというよりも、自らが獲得した社会的・経済的・法的地位を守ることに強い関心を抱いていた。[5]
農奴制
農民たちが求めていたのは、主として農奴という身分から脱却し、より大きな自由を獲得することであった。[6] その象徴的な事例として、ミュールハウゼンの農民たちが、領主夫人が糸を巻くために使用するカタツムリの殻を集める労役を拒否した出来事が挙げられる。
領主制(seigneurial system)の再強化は、それ以前の半世紀の間に弱体化していたが、農民たちはその復活を受け入れようとはしなかった。[7]
ルターの宗教改革
農奴や都市住民、ギルド職人、農民、騎士、貴族など、あらゆる社会階層の人々が既存の社会秩序に疑問を抱き始めた。例えば、1501年から1513年の間に執筆された『百章の書(Book of One Hundred Chapters)』は、宗教的・経済的自由を提唱し、支配体制を批判するとともに、徳高い農民への誇りを示していた。[8]
また、16世紀初頭の20年間に発生したブントシュー運動(Bundschuh revolts)は、反権威主義的思想を表現し、それを各地へ拡散させる手段となった。
ルターによる宗教改革は、こうした運動を活性化させた可能性はあるが、それ自体が反乱を生み出したわけではない。ルターの宗教改革とドイツ農民戦争は、同じ時代に発生した別個の現象であった。[9]
しかしながら、ルターの唱えた「万人祭司主義」の教義は、ルター自身の意図以上に社会的平等を主張するものとして解釈される可能性があった。ルターは反乱に激しく反対し、『農民の殺人的・強盗的徒党に反対して』(Against the Murderous, Thieving Hordes of Peasants)を執筆した。その中で彼は、「できる者は誰でも、公然とであれ密かにであれ、打ち倒し、殺し、刺し貫け……反乱者ほど有害で悪魔的なものはない。狂犬を殺さねばならないのと同じである。お前が打たなければ、奴がお前を打つだろう」と述べている。
歴史家のローランド・ベイントンは、この反乱を、当初はルターの宗教改革の言説に影響を受けた運動として始まったものの、実際には当時の根深い経済的緊張によって宗教的枠組みを超えて拡大した闘争であったと位置付けている。[10][11]
階級闘争
フリードリヒ・エンゲルスは、この戦争を、台頭しつつあったプロレタリアート(都市住民層)が諸侯権力に対して自らの自立性を確立できず、その結果として農村階級を見捨てることになった事例として解釈した。[12]
南西部における蜂起
1524年の収穫期、シュトゥーリンゲン(シュヴァルツヴァルト南部)において、ルプフェン伯爵夫人は、度重なる凶作の後にもかかわらず、農奴たちに糸巻きとして使用するためのカタツムリの殻を集めるよう命じた。これに対し、数日のうちに1,200人の農民が集結し、不満事項の一覧を作成するとともに、代表者を選出し、旗印を掲げた。[13]
1524年8月24日、ハンス・ミュラー・フォン・ブルゲンバッハはシュトゥーリンゲンで農民たちを集め、「福音同盟(Evangelical Brotherhood)」を結成した。同盟はドイツ全土の農民を解放することを誓った。[14]
数週間のうちに、ドイツ南西部の大半は公然たる反乱状態に陥った。[13] 蜂起は黒い森からライン川沿いに広がり、ボーデン湖周辺、シュヴァーベン高地、ドナウ川上流域を経て、バイエルン[15] やチロルにまで及んだ。[16]
蜂起の拡大
1525年2月16日、メミンゲン市に属する25の村が反乱を起こし、市参事会(市議会)に対して経済状況および政治状況の改善を要求した。農民たちは、賦役労働(農奴的隷属労働)、土地利用、地役権、森林および共有地の利用制限、さらに教会への奉仕義務や納付義務について不満を訴えた。
市当局は、農民たちの問題を協議するため村民委員会を設置した。当局は、具体的かつ限定的な要求事項が列挙されるものと予想していた。しかし実際には、農民たちは農民と市当局との関係の根幹を揺るがす統一的な宣言を提出した。
この「十二箇条」は、農民たちの不満を明確かつ一貫して表明するものであった。市参事会はその多くを拒否したが、歴史家たちは一般に、このメミンゲンの条項が、1525年3月20日に上シュヴァーベン農民同盟によって採択された「十二箇条」の基礎となったと考えている。
シュヴァーベン同盟の部隊は、騎兵約200名、歩兵約1,000名に過ぎず、この規模の反乱を鎮圧することはできなかった。1525年までに、黒い森、ブライスガウ、ヘーガウ、ズントガウ、アルザスにおける反乱だけでも、歩兵3,000名と騎兵300名の大規模な動員を必要としていた。[17]
十二箇条(基本綱領)
1525年3月6日、上シュヴァーベンの農民軍(Haufen)の代表約50名――Baltringer Haufen、Allgäuer Haufen、およびボーデン湖農民軍(Seehaufen)――がメミンゲンに集まり、シュヴァーベン同盟に対抗する共同行動について協議した。[18]
翌3月7日、困難な交渉の末、彼らは上シュヴァーベン農民連合である「キリスト教同盟(Christian Association)」の設立を宣言した。[19]
農民代表たちは3月15日および20日に再びメミンゲンで会合を開き、さらなる討議の後、「十二箇条」と「連邦規約(Bundesordnung)」を採択した。[19]
彼らの旗印であったBundschuh(紐靴)は、この同盟の象徴となった。[19]
「十二箇条」は、その後2か月間で25,000部以上印刷され、急速にドイツ全土へ広まった。これは近代的な印刷技術が反乱勢力に力を与えた代表的な例である。[19]
十二箇条では、共同体が聖職者を選出・罷免する権利を要求するとともに、「大十分の一税(great tithe)」について、妥当な司祭給与を差し引いた後は公共目的のために用いるべきだと主張した。[20]
(「大十分の一税」とは、カトリック教会が農民の小麦やブドウの収穫に対して課していた十分の一税である。この税はしばしば農民収入の10%を超える額に達した。[21])
また十二箇条は、農民のその他の農作物に課されていた「小十分の一税(small tithe)」の廃止も要求した。
さらに、農奴制の廃止、死亡税(死去時に領主へ納める税)の撤廃、漁業権および狩猟権からの排除の廃止、貴族によって共同体や個々の農民から奪われた森林・牧草地・諸特権の回復を求めた。また、過度な賦役労働、租税、地代の制限も要求事項に含まれていた。
最後に、十二箇条は恣意的な司法運営および行政運営の終結を求めた。[20]
関連項目
外部リンク
- ↑ Dees, Robert (2023). Power of Peasants, chap. 6.
- ↑ Blickle, Peter (1981). Revolution of 1525, pp. 26–27, 205; Blickle, Peter (1993). Die Revolution, p. 36, see also table at pp. 328–33; Blickle, Peter (1976). "Economic Background," p. 65.
- ↑ Dees, Robert (2023). Power of Peasants, esp. chaps. 6–12.
- ↑ Zagorín 1984, pp. 187–188.
- ↑ Zagorín 1984, p. 187.
- ↑ Zagorín 1984, p. 188.
- ↑ Bercé 1987, p. 154.
- ↑ Strauss 1971, p. [要ページ番号] .
- ↑ Zagorín 1984, p. 190.
- ↑ Bainton 1978, p. 208.
- ↑ Engels 1978, pp. 411–412 & 446.
- ↑ Engels 1978, pp. 59–62.
- 1 2 Engels 1978, p. 446.
- ↑ “" Reformation And Reforming Never Stops " By Rev. Peter E. Bauer” (英語). HuffPost (2017年9月29日). 2024年8月24日閲覧。
- ↑ Miller 2003, p. 4.
- ↑ Hannes Obermair, "Logiche sociali della rivolta tradizionalista. Bolzano e l’impatto della "Guerra dei contadini" del 1515," Studi Trentini. Storia, 92#1 (2013), pp. 185–194.
- ↑ Miller 2003, p. 7.
- ↑ Bainton 1978, p. 210.
- 1 2 3 4 Bainton 1978, pp. 211–212.
- 1 2 Engels 1978, p. 451.
- ↑ Engels 1978, p. 691, Note 331.
ドイツ農民戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:01 UTC 版)
「マルティン・ルター」の記事における「ドイツ農民戦争」の解説
「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民に希望を与えることになった。そもそも農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないというのである。かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた。ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになった。さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となった。1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争である。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる(この平和な抵抗の路線についてはすでにさかのぼること1520年『ドイツ国民の貴族に与う』で示されていた)。 ルターは路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。(…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった。宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった ルターの鎮圧支持を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たち(?)を殺害した。ミュンツァーも捕らえられて処刑された。これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、またルターの説からそもそもこの反乱がおこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになった。ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになった。こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。
※この「ドイツ農民戦争」の解説は、「マルティン・ルター」の解説の一部です。
「ドイツ農民戦争」を含む「マルティン・ルター」の記事については、「マルティン・ルター」の概要を参照ください。
ドイツ農民戦争と同じ種類の言葉
- ドイツ農民戦争のページへのリンク
