ドイツ‐のうみんせんそう〔‐ノウミンセンサウ〕【ドイツ農民戦争】
ドイツ農民戦争
ドイツ農民戦争
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「マルティン・ルター」の記事における「ドイツ農民戦争」の解説
「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民に希望を与えることになった。そもそも農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないというのである。かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた。ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになった。さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となった。1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争である。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる(この平和な抵抗の路線についてはすでにさかのぼること1520年『ドイツ国民の貴族に与う』で示されていた)。 ルターは路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。(…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった。宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった ルターの鎮圧支持を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たち(?)を殺害した。ミュンツァーも捕らえられて処刑された。これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、またルターの説からそもそもこの反乱がおこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになった。ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになった。こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。
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ドイツ農民戦争
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「マリエンベルク要塞」の記事における「ドイツ農民戦争」の解説
ドイツ農民戦争中の1525年、マリエンベルク要塞は攻撃を受けたが、不成功に終わった。テューンゲンのコンラート2世 (Konrad II. von Thüngen) の支持者たちは、他のヴュルツブルク司教区が反乱軍によって荒らされつくしている中で城の一部に留まり続け、シュヴァーベン同盟軍と逃亡から戻ってきた司教の軍隊が、統制に劣る農民軍を軍事的に打ち破るまで篭城を続けた。反乱を起こした農民軍は、ヴュルツブルクの門のところで酷く打ち破られた。 農民軍の包囲下の要塞の指揮官は、聖堂参事会員で辺境伯のフリードリヒ・フォン・ブランデンブルク(Friedrich von Brandenburg-Ansbach、1497年 - 1536年)であった。彼は18部隊を指揮しており、それぞれのレベルに応じて要塞の各所に配置された。さらに彼自身が戦術予備を率いていた。兵士たちはちょうど、ゼバスティアン・フォン・ローテンハン(Sebastian von Rotenhan) によってヴェルネック、ローテンフェルス、ホンブルク、カールスブルクの各城から集結してきたところであった。合計で400人ほどが要塞におり、そのうち240人が武装していた。主要な人物としては、カステル伯爵 (Castell) のグラーフ・ヴォルフ (Graf Wolf)、司教座聖堂参事会員のハンス・フォン・リヒテンシュタイン (Hans von Lichtenstein)、同じく司教座聖堂参事会員のメルヒオール・ツォーベル・フォン・ギーベルシュタット (Melchior Zobel von Giebelstadt)、ハンス・フォン・グルムバッハ (Hans von Grumbach)、オットー・グロース (Otto Groß)、ジーグムント・フックス (Sigmund Fuchs)、ハインツ・フォン・シュタイン (Hainz von Stein)、ヴォルフ・フォン・フルバッハ (Wolf von Fulbach)、マーテルン・フォン・フェステンベルク (Matern von Vestenberg)、ヴェルナー・フォン・シュテッテン (Werner von Stetten)、セバスティアン・ガイヤー (Sebastian Geyer)、ローレンツ・フォン・フッテン (Lorenz von Hutten)、ヴェンデル・フォン・リヒテンシュタイン (Wendel von Lichtenstein)、アンドレアス・シュタイン・フォン・アルテンシュタイン (Andreas Stein von Altenstein)、ゲオルク・ヴェムクディンガー (Georg Wemckdinger)、バーテル・トルクゼス (Barthel Truchseß)、ゲッツ・フォン・テューンゲン (Götz von Thüngen)、フィリップ・ベルンハイマー (Philipp Bernheimer) が挙げられる。作戦会議に参加したのは、ゼバスティアン・フォン・ローテンハン、フィリップ・フォン・ヘルビルシュタット (Philipp von Herbilstatt)、オイシュタヒウス・ウント・ベルンハルト・フォン・テューンゲン (Eustachius und Bernhard von Thüngen)、カール・ツェルナー (Carl Zöllner)、フリードリヒ・フォン・シュヴァルツェンベルク (Friedrich von Schwarzenberg)、ハンス・フォン・ビブラ (Hans von Bibra)、ジルヴェスター・フォン・シャウムベルク (Silvester von Schaumberg) であった。他にデション・ヨハン・フォン・グッテンベルク (Dechant Johann von Guttenberg)、コンラート・フォン・ビブラ (Konrad von Bibra)、他のヴュルツブルクの聖堂参事会員らもいた 。 マリエンベルク要塞の斜面にあるテルシュタイゲ (Tellsteige) には小さな記念碑が建てられており、多くの農民とその願いを追憶している。ティルマン・リーメンシュナイダーは市議会議員であったにもかかわらず農民軍の立場を支持し、このために6週間に及ぶ反乱が鎮圧された後にマリエンベルク要塞に拘束された。グレッセンガッセ(Gressengasse、グレッセン通り)にある歴史的な宿屋、ホーフ・ツム・シュタッヘル (Hof zum Stachel) はその当時、反乱側の市民や農民たちの集合場所となっており、目印にするためにモーニングスター(棘のついた武器)を宿の象徴とした(シュタッヘル Stachelはドイツ語で棘という意味)。
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ドイツ農民戦争(1525年)
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「ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン」の記事における「ドイツ農民戦争(1525年)」の解説
1525年からのドイツ農民戦争では、バンベルク周辺地域からの農民達がブルクグルプ城を略奪・放火し、エーバーマンシュタットからの一団はファイルブロン城を略奪した。この農民蜂起がシュヴァーベン同盟軍によって鎮圧されると、ホルフェルトの市場で、5人の反乱指導者が斬首された。
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ドイツ農民戦争と同じ種類の言葉
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